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【気まぐれエッセイ】ずっと恐れていた日がついに来た

私はずっと、この日を迎えるのが恐かった。

どんなに頑張ってもどうにもならないことだと幼い私にも分かっていたから、為す術がなかった。私の力が足りないだけならどれほど良かっただろう。賢くて強くて偉い誰かに、どんなことをしてでも頼み込んだのに。誰にも、どうにも出来ないことだと知っていたから、恐怖と寂しさからはどうしたって逃げられなくて、私は幾度となく気が狂うんじゃないかと思うほどに、怯え、泣いた。

曽祖父が亡くなったあの日、25年前からずっと私は、この日が来ることを恐れてきたのだ。

それでもこの日は、当然、やっぱり、訪れた。



先日、祖母が他界した。



私は自他共に認める“おばあちゃんっこ”だ。この表現が一番伝わりやすいと思うからこう書いたけど、言葉だとなんだかポップに聞こえるね。こんな表現じゃ足りないくらい私にとって祖母は、大きな大きな存在だ。

祖母は、両親と共に、私の幸せの基盤を作ってくれた人。私たち家族に大きくて深い愛を惜しみなく与え続けてくれた人。世間体なんかより、家族の幸せを迷いなく優先してくれる、身内に一番優しい人。聡明で、強く明るく愛情深い人。本当は怖がりで繊細な人。それでも家族の盾となり皆を力強く守ってくれるスーパーレディー。そんな祖母に愛され守られて、私の幼少期は幸せに満ちていた。


そんな偉大な祖母は、82歳のお誕生日を待たずに旅立った。

晩年は認知症を患い、祖母は戦ってきた。何度も表彰されるほど才能があった俳句も段々出来なくなって、色んなことを忘れていく毎日は、想像を絶するほど不安で辛かったろうと思う。

葬儀の後、妹が言った。
「おばあちゃん、死ぬのは怖かったと思うけど、もう生きていたくはなかったかもね」と。

認知症になってからの祖母をずっと見てきて、私もそう感じることが度々あった。少しでも楽しい気持ちになってほしいと思い私たちが外側から何をしても、祖母の内側がもうそれを受取ろうとはしていないと。美味しいものも、綺麗な景色も、面白い番組も、もう何も祖母の心には響かなくなってきていることが悲しくて、どうしてあげていいのか分からなかった。一緒にお散歩したり、お祭りに行ったり、食事したり、一緒にお風呂に入ったり、思いついたことはしてみたけど、毎日出来たわけじゃないし、不安や孤独を感じる日も少なくなかっただろうと思う。

私たちが祖母の話を聞くことが、少しは、お喋りな祖母の幸せにつながっていたと信じたい。何度も繰り返される話を、もう聞けないことがたまらなく寂しい。


認知症の診断がおりたとき、祖母は私に電話をくれた。
「認知症やて、おばあちゃん」と言って祖母は笑った。そしてこう続けた。
「老いていく姿を見せることも、若い人たちに対しておばあちゃんが出来ることかな」と。

人のお世話をしつづけてきた祖母は、きっと人の世話になるだけの存在にはなりたくなかったのだと思う。最期まで、誰かの役に立ちたかったのだと。とても祖母らしい。実際に私は、祖母の姿からたくさんのことを学ばせてもらった(っていうかおばあちゃん、居てくれるだけで、十二分に私たちは幸せだったよ)。

私は家族や恋人に、わりと照れずに言葉で気持ちを伝えられる質だから、きっとそういうことが苦手な人にとってはこっぱずかしいような言葉を祖母にもたくさん伝えてきた。
「おばあちゃん大好き」と、30歳を過ぎても幼い頃と変わらずに伝え続けた。それでももっと言っておけば良かったと思うけれど、思ったときに感謝と愛を伝えていたから、その点においては後悔が少ない。

悔いているのは、もっとたくさん会いに行けばよかったということ。

「おばあちゃんの頭が真っ白になったら、私が毎日ご飯を作りに来るね」と、幼い頃私は祖母に言った。祖母はそんなことまったく期待していなかったと思うけど、私はその約束を果たしたかった(毎日は難しいけど、せめて毎週)。そんな話をしていた頃もう既に、染めているから黒いだけで、祖母の髪はとっくに真っ白だったそう。私が少し大人になってから祖母が愛しそうに話してくれた。

私には芸能界で活躍するという夢があって、10代後半から20代の頃はそれに向けて必死で頑張っていた。今は少し形を変えたけれど、自分を表現する仕事で自由に十分なお金を稼ぎ大切な人を幸せにしたいという気持ちはずっと変わらない。

私は早く成功して、時間的にも経済的にも自由を手にして、早く祖母に恩返しをしようと思っていた。

間に合わなかった。

ちょこちょことお土産を持って会いに行き、お便りフォトに写真を送り、誕生日や年末年始、敬老の日など、イベントごとは一緒に過ごし、そのときに出来ることをやってきたつもりだけど、それでも、全然足りなかった。もっと幼い頃のように、当たり前の日常を当たり前に一緒に過ごしながら恩返しがしたかった。

"成功してから" なんて言っていたら、取り返しがつかなくなる。そう思って祖母と最後に会った日私は、今年の手帳にこう書いたのだ。

ーおばあちゃんと週一回(出来れば二回)、一緒にご飯を食べてお風呂に入るー

この抱負を書いた四日後に、祖母は旅立った。


祖母らしい。

母が毎日のように行っていたとは言え、祖母は最期まで一人暮らしをしていた。

「そろそろ、一人で住むのは無理かもね」と家族で相談していた矢先のことだった。私たちに負担を掛けたくないと思ったのかな(でもおばあちゃん、私たちはもう少し一緒に居たかったよ…)。


もう、電話がかかって来ないなんて。

もう、声が聞けないなんて。

もう、祖母の家へ行っても出迎えてくれる祖母はいない。

そんなの、信じられない。

大好きだよ、おばあちゃん。

もう一度、会いたいよ。


祖母が亡くなった夜(このときはまだ、誰もそのことを知らなかったけれど)私はリビングで寝落ちしてしまった。早朝目が覚めてお風呂に入るとなんだか頭が冴えてきて、出かけるまでにけっこう時間があったのだけど、もう一度眠る気にもなれず、一時間ほど早く家を出てカフェで仕事をしていた。今の生活サイクルになってからは初めてのことだった。

逆にいつも祖母を案じ、電話がしばらく繋がらなければ様子を見に行っていた母は、その日に限ってなぜか心穏やかにのんびり休めたと言う。

私は、これは祖母からのメッセージだと思うのだ。

これまでずっと父や私たち姉妹のため、そしてここ数年は祖母のため、長年家族のために頑張ってきた母には「もうゆっくりしなさい」と。

そして私には
「まだまだ人生これから。叶えたいことがあるのなら、シャンとしなさい」というメッセージを、最期に祖母は贈ってくれたのだと。


祖母はいつも言っていた。

「子どもは、物心付く三歳くらいまでの間に、甘い汗が出るほど可愛がってあげないと」この言葉は強く心に残っているし、何より祖母が身をもって教えてくれた言葉以上のものが、しっかりと私の体に刻み込まれている。


私は、祖母と約束をした。
「おばあちゃんにもっとしてあげたかったことを、これからはお母さんに返していくね」と。祖母はきっと、それが一番嬉しいはずだから。母は祖母にとって自慢の娘だった。目に入れても痛くないほど母のことが大事なのだと、孫の私にもわかるほどにね。大好きな祖母の愛しい娘は、私にとっても大切な母。これって、とっても幸せなことだよね。


そして父や妹、これから家族になる予定の彼や、いつか生まれて来てくれる私の子どもたちにも、今度は私が、祖母からもらった甘い汗が出るほどの愛を、たっぷり注いでいく。

もちろん、私自身の人生もこれまで以上に大切にする。必ず欲しい生活を手に入れて、大切な人たちと自分を幸せにし続けると、私は祖母に誓った。



おばあちゃん、ありがとう、大好きだよ。

おばあちゃんのカッコいい生き様から、たくさんのものを学ばせてもらったよ。





P.S. 色んな想いが溢れすぎて、私は同じように悲しみを共有できる家族としか、祖母のことを話していない。表面的に慰められたり分かったようなことを言われたくないからだ。

でも溢れる想いを、そして決意を誰かに聞いてほしいという想いもあった。だから、読んでくださった方、ありがとう。

私、ちゃんと生きます!






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