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Forget Me Not(第16章)

これは何?
 絵を描けなくなった画家である日向理仁を中心に、湖畔で起きた失踪事件の解明を試みるお話。

 アトリエの床はびりびりに破かれ、もしくはぐしゃぐしゃに丸められた油彩紙で埋められていた。ちょうど紙のストックを切らした時、ロクスケが訪ねてきた。この前贈った絵のお礼と言ってLサイズのピザを5枚と瓶ビールを20本ほど持ってきてくれていた。この手土産は今の私の気分にとって最高のものだった。

 私たちはピザを頬張り、ビールでそれを流した。15本ほど開けたところで、私はロクスケをアトリエへと招いた。

「なんだ、ゴミ屋敷じゃあないか。いったいどうしたんだ?」

と冗談交じりに茶化すような口ぶりで話すロクスケに対し、理仁は酔いに抵抗しながら答えた。

「おれは昨日、見たんだ。連続行方不明事件の犯人を。人ではなかった。じゃあ何か?『黒いもの』としか呼べない。これを見てくれ。ようやく描くことができた。私が見たのはこれだ。」

私はイーゼルに掛けた絵をロクスケの目に焼き付けさせるよう、近くまで持って行った。ロクスケはひとつ後退りした。とても自然に。

「湖のランニングコースを走っている時だった。不意に、目の前に小さな女の子が現れた。そしてその子の正面にこれがいたんだ。女の子は招かれるように、魂の抜けるその時を待っているかのようにぼうっと立っていた。おれは咄嗟の判断で女の子を抱きかかえ、走り去った。その子は無事に家まで送り届けたよ。」

話はこれで終わりじゃないんだ、とわずかな余韻を残して一度言葉を切った。

「『黒いもの』の正面を走り抜いた一瞬、おれは聞いた。身体のどこかで、おれは、『パパ』と呼ばれたのを聞いた。それはただの呟きではなく、ベクトルが確実におれに向いていた」

「確かに聞いたのか」

「ああ」

「じゃあすでに結論は出たってことだな。この前もらった、君の娘の日記をどう解釈するでもなく」

「君の生きてきた世界では、こういう現象を何て表現するんだ?」と理仁は尋ねた。涙を必死に堪えて。膨らませ過ぎた風船は針のほんのひと突きにも敏感になる。

「『異界への勧誘者』というのを知っている。元は人間だったが、何らかの理由で心が現世でない世界に極度に振れる。それがある極値を越えた時、その人間は異界への立ち入りを許される。その時に人間をやめて別のモノとして変身するかどうかの選択を迫ってくるこの存在が『異界への勧誘者』と呼ばれている。傾き過ぎた心はたいてい、そのまま転がってゆく」

ロクスケはこの話の伝承者であるか、あるいは経験者であるかのように語った。

「そして異界への仲間入りを果たした−異なるもの(Diffrent things)ということでDと置こうか−そのDは異界での役割を与えられるんだ。心の苦しみの性質に合わせて。君が見たという黒いもの、『異界への勧誘者』は“孤独の苦しみ”が変身した存在ということだ。現世と異界との狭間に立っている。仕立ての良い制服に身を包んだ誠実なドアマンのようにね。そこで、自分と同じような苦しみに耐えられなくなった人間を迎え入れているんだ。実は、君の娘の日記とこの話を線で結んで良いものかどうか、ずいぶん考えていた。憶測でしてしまうにはあまりに失礼な話であるからね。ただ今日の君の話を聞いていると、おれの記者としての嗅覚がな、ああだこうだと騒ぎ立てていてね、それを無視するわけにはいかなかった。自分で言うのもなんだが、これが割と真実を探り当てるのさ。これで今まで食ってきたわけだしね。」

−ここまで話し終えたところで、ロクスケは理仁に対して強烈な焦燥感を抱いていた。彼は今、自分の娘のことにばかり頭を悩ませている。『異界への勧誘者』となってしまった我が娘に対して、なす術のない今となっては悲しみに暮れるほかないだろう。しかし。ロクスケには理仁に気付いて欲しいことがあった。彼が昨日湖で助けたという小さな女の子のことだ。異界への勧誘を受けている最中だった女の子を、間一髪で助けたというところで満足してはいないか?勧誘者は、心の苦しみが作り出した引っ掛かりにフックを掛けているに過ぎない。本質的な問題は何も解決していないのだ。家庭環境、名前すら知らない彼女は、現世に残ってしまったばかりに今も辛い状況にあるかもしれない。そこまで引っくるめて救う意志は彼にあるのか。彼には考えるべき責任があるのだ。自分の娘を『異界への勧誘者』にしてしまったことに対して思うところがあるのなら、尚更だ。しかしまだ冷静でいられているロクスケは、自分もまた今の理仁と同じように無責任な立場にいることを自覚していた。いつもいつでも、彼の隣にいるわけにはいかない。ほんの少しならできる。3日やあるいは1週間なら、けれどそれ以上となれば今度はこちらの気持ちが持たなくなってしまう。その点で、彼には献身的な愛が必要なのだ。どこまでいっても彼を離すことのない無限の愛が、損得勘定抜きの無償の愛が。今の自分だって、目の前にふっと現れた問題を場当たり的に解決したくなってしまう気まぐれな存在に過ぎないのだから。

「ロクスケ、君の知っている話をもっと聞かせてくれないか。君の言葉として伝えてくれるものなら、どんな突飛なことだっていい。おれはそれを足掛かりにして今日以降のことを考えたいんだ」

酒を酌み交わして楽しいひと時を過ごせる一人の友人として、一連の行方不明事件の取材を担当した一人の責任ある記者として、二重の意味において、実質的に事件の当事者である理仁のことをロクスケは放っておくことができなかった。

「そうだな・・・この話は今日するつもりじゃあなかったんだが・・・」ロクスケは慎重に言葉を選びながら話した。その両手はテーブルの上で固く組まれ、これ以上ビールを口にする余裕はないものと思われた。

「どんなに楽しくて愉快な喜劇にも終わりがあるのと同じように、Dの出現というこの町きっての悲劇にだって終わりがある。終わらせ方がある。それを今から話そうか。」

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