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Forget Me Not(第8章)

これは何?
 絵を描けなくなった画家である日向理仁を中心に、湖畔で起きた失踪事件の解明を試みるお話。

第8章
 手紙が届いた。手触りの良い白色の封筒、装飾はなし。宛名は「日向理仁」で、差出人は宝生青葉。久しぶりに目にする名前だった。
それは唐突にやってきた。私にとっては。
しかし、私の生活に亀裂を入れようとする矢尻のついたものではなさそうだということが感じられる手紙。

 テラスに出た。楽しかった頃の記憶の断片が壁の木材やランプに、チョコエッグのおもちゃのように埋め込まれている。
ペーパーナイフを持った右手がかすかに震えるのを見て、自分の心の正直な姿を捉えた。自分はこれから何を知ることになるのか。湖の波が一層穏やかになったように感じられた。余計な物音を立てないようにと配慮してくれているのか。大丈夫だ。何も、悪いことはない。
指先はすでに手紙の始まりの文字をその腹でさすっていた。

 私は、僧侶がお経を唱える時のような正直さと誠実さに満ちている言葉の連なりをそこに発見した。手紙にはこう書いてあった。
 「ご無沙汰しております。かつての忌々しい事故が起きてから、もう2年の月日が経つのですね。現在も変わらず同じお住まいに暮らしていらっしゃるとのことを聞き及びまして少しばかり驚くと同時に、何かわたくしの方でお手伝いできることがありましたらと、お手紙をお送りした次第でございます。
 湖は今も昔も私達の日常を支える貴重な存在ではありますが、それも今となってはただ水源としての価値を残しているのみです。よくご存知のことかと思われますが、今では漁師や釣り人、ヨットやボートその他一切のものがこの湖を恐れ離れていきました。
 町の方へ引越しをして私達と一緒に暮らしませんか。湖では買い物ができないばかりか、行政サービスの一切がもはや入り込めなくなっています。根本的な原因が分からず、事件なのか事故なのかさえ未だに解明できないこの状況はまだしばらく続くと見込んでおります。ご自身の安全確保のため、こちらで共に暮らしてくださることを切に願います。
 前向きにご検討くださる場合は、一度役場までお越しいただけましたら幸いです。受付で私の名を告げてください。すぐに飛んで参りますので。
 またお会いできますことを楽しみにしております。。
                葉山町役場 観光課 宝生青葉 」


 手紙を読んだ私は無表情で、この手紙が運ぼうとしている青葉の意図を測りかねていた。あまり深いものではないとはいえ、友人としての好意がある一方で観光課職員としての職務的な意味を感じる。もう1年もの間会っていないのだ。この手紙だけでは真意はわからない。

 ー私はここを離れることはできない。少なくとも、今の段階では。

 結局、この手紙は暖炉に放り投げ、ささやかな温かみとして処理することで自分の気持ちを落ち着けた。精神的な繋がりを持てなかった手紙なのだ、せめてこうして身体的な温かみをくれるくらいのことはあったっていいだろう。
というものの、私はそこにあったかもしれないほんの少しの好意をも、同時に灰にしているのだなということに想い及ばないわけでもない。
しかし分からないのだ。こんな手紙1枚でいったい何が分かるというのだ。
材料は乏しすぎる一方で、考えることが多すぎる。そしてその結論がどうであれ、下手な希望を持ってしまうことも数少ない友人を貶してしまうこともしたくはなかった。
だから私は、考えること自体を放棄した。
暖炉の火が手紙に回ると、私は尖らせた口で鋭く息を吹きかけた。
火の粉が舞い、炎がよろめいた。

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