地域おこし協力隊の募集要項を自分の言葉に翻訳する
あっという間に春と夏が過ぎ、着任から半年が経った。
冬の紙漉き仕事が本格的に始まる前に募集要項を再確認して、これからの活動の指針を定めたい。
募集要項
私は「東山和紙や地元のお土産品の魅力を引き出す企画職」として採用された地域おこし協力隊だ。
⑴東山和紙の後継者不足
⑵東山町内の観光消費単価をあげるための商品開発・販売促進
この2点の課題に取り組む。
最終的には
東山和紙を含む物産の企画・販売での事業化
=東山和紙ブランドで起業
を目指す。
「東山和紙ブランド」とは
外来語は鵜呑みにせず、一旦日本語で捉え直して自分の言葉にすること。
というのは教授からの教えで、外来語が多いビジネスやデザインの世界の言葉に対して有効だ。
ブランドとは、正直に良質なものをつくり続けた結果として、ある商標が有するようになった価値である。
これは原研哉さんの言葉。
「東山和紙」ブランド = 東山町で800年紙漉きが営まれた結果
和紙職人鈴木英一さんの幼い頃、70年前の「和紙の里」の夜。
夕方になると近所の家から「とんたんとんたん」と和紙の原料である楮を叩く音が聞こえてくる。次の日の紙漉きのために、楮を棒で叩いて繊維を細かくする「紙草打ち」の音だ。「ほら、隣の家でも始まったぞ」と父が言い、道具の準備をして兄弟総出でコウゾを叩く。兄弟が居眠りを始めて棒の動きが止まれば、こんこんと棒を叩いて起こしてやる。自分も眠い目を擦りながら、2時間ほど叩く。辛く厳しい作業でもあるが、家族が集まってよもやまの話に花を咲かせる楽しい時間。
職人さんはかつての東山の、和紙の里の営みを知っている。
百姓が農閑期の冬に紙漉きをしていた時代。セメント工場が誘致される前の、一家で農業をしていた時代。
プラスチックの障子紙が普及する前の「障子紙」が東山和紙を意味していた時代。地域おこし協力隊と銘打って都会育ちの若者を紙漉きの道に入れる必要がなかった時代。
東山町の家々の障子紙が陽を受けて白く輝いていた情景を知っている。
私がやるべきことは、その時代と今を繋げるための情報デザインなのではないか。
障子がある和室の美しさを伝える。
清流と楮畑があり、紙漉きのある「和紙の里」の景観を伝える。
まずは東山町民へ、そして一関市内、岩手県内へ。
国内外から猊鼻渓を訪れる観光客へ。
価値を伝えて、需要と単価を上げる。
紙漉きで家族を養えれば後継者不足も解消する。
そのために、まずは自分自身が東山和紙を取り入れた生活を実践する。
東山にないものを過剰に持ち込まず、あるものをいかす。
東山町で生まれ育った方々から聞く町のかつての姿はどれも、羨ましくなるほど豊かだ。
これは半年間地域おこし協力隊として活動した私の言葉。