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弱者がいつだって被害者とは限らない

懺悔しましょう。僕はいじめたことも、いじめられたこともある。
楽になろうと言っているわけじゃない。自己陶酔の為でもない。というか、そんなことは記述するまでも無く、僕の日常である。
僕という人間が囚われた悪夢の出発点は、それでも説明しておきたい。いじめは推奨も正当化もしないけれど、それに近い表現になることは前置きしておきたい。建前は建前として偉い人が述べてくれている。解決策を出せるほど賢くないし、ずっと求めて彷徨っているからこそ見ているからこそ、こんな有様になっている。それなら今は、隠し事はよそう。ありのまま、あったことを、思ったことを伝えようと思う。

僕はいじめられた方が先だった。小学生の頃だったが理由は複数あった。小さなことの積み重ねだった。いじめの境界なんてものは無く、気がつけば僕はクラスの嫌われもので幾ら暴力を奮っても良い人間になっていた。2年くらいほどして、当時担任だった先生が泣きながら説教をしてくれるまで僕にとって学校はそれが普通だった。
それでも、僕はそれが理不尽だとはあまり思っていなかった。辛いけど、痛いけど、苦しいけど、悲しいけど、寂しいけど、怖いけど、全部僕が悪かった。彼らの暴力に、理由が無いことなど一度だって無かった。大概、僕に原因があり、僕の失態だった。
それは誤りだと、君は悪くなかったと言う人は、余りにも自分の感情を棚に上げていると思っている。原因が合理的であれ非合理的かの違いはあれど、感情が動いたとき以外に人が行動することなど有り得ない。いじめは感情的に嫌う原因があって、初めて実行に移される。無論、非合理的なことは避けるべきであり、そういう意味でいじめは社会的に非合理な避けるべき事象なのである。

だから、中学生でいじめをしていた僕は結果として間違っていたということになる。
相手はクラスの女子だった。コミュニケーションがマトモに取ることが出来ない人間を、僕は許容する必要がないと判断していた。かつて己がそうされたように、排除したいと本気で思った。
誓っていうが、他人から受けたストレスを無意味に向けたことは一度もない。少なくとも、僕はそう思っていた。間違ったことはしていないと、合理的に不快な奴は排除すべきだと、そう思っていた。
極めて単純化されたルールはしかし、肯定されるべきでは無いと今なら言うこともできるが、そこまでの視野を齢14歳で持ち合わせることができる程、僕は賢くなかった。

実際のところ、現在でも他者に向ける攻撃性を抑え込むよう努めてはいるものの、根本的な考え方はあまり変わっていない気がする。弱者は淘汰される。それが僕の被害妄想の原点であり、承認欲求の出発点であり、創作をする理由なのである。
他人を認めさせること、弱者では無いという証明をしなければ社会に居場所は無い。誰かに対してそれを求めたくないが、自己には相も変わらず暴力を向けてしまう。というか、理想や建前は有っても評価され無ければここに居てはいけないと言われてしまうのだと、いつも怯えている。
だから僕は今日も何かをしている。
僕はここにいる。ここに居てもいい人間だ。
いじめられっ子の小学生だった僕の変わりに、今日も叫んで訴える。世間に、誰かに、いじめっ子だった中学生の僕に。


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