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労働が奪う自由~走って取り戻す!~

最近とても忙しい。平日はもちろんのこと、土日の休みもほとんどない。家に帰ってきても仕事をこなす日々。はっきり言ってやってられない。こうした日々が続くようになっての雑感。

①読書をする時間がない。自己研鑽する時間が減るわけだから、自分のキャリアアップを考えると望ましいことではない。目の前の仕事を片付けていくことは確かに重要だが、これは一時的に自分を助けても、結局ゆるやかに自分を駄目にしている気がする。

②運動する時間がない。頭脳ばかりか体までなまってくる。結局、それ自体が精神的なストレスになる。

③ストレス状態が続く。

ではどうするか。多少疲れてもランニングをする時間を捻出するのだ。

日々の仕事での疲労はいうなれば外発的な負荷だ。仕事での負荷は、多少は自分で変えられるかもしれないが、多くの部分は自分の意志とは関係なく降りかかってくる。だからそのときの自分は受け身の状態だ。いうなれば、自由ではない。

一方、ランニングをすることによって生まれる疲労は自らが選んだ行為によって生み出されたものだ。あくまで自分の意志に基づいた結果だから、それは他律ではなく、自律である。だから、そこには自由がある。同じ疲労を感じても、そこに自由があるかどうかで、「生」の感じ方が全然違ってくる。

哲学者カントは『実践理性批判』や『道徳形而上学の基礎づけ 』で、自律による自由を重視した。彼は単に欲望に基づく行為、例えばお腹がすいたから思い切りご飯をたべる、眠たいから寝るといった行為は自然法則の奴隷であると述べて批判する。自然法則によってではなく、あくまでも理性によって行為できるところにこそ、人間の尊厳があるとカントは述べる。

そう考えると、自分で考える時間も奪われ、ただひたすらに他律的に働かされる社会とは一体何なのかという気持ちになる。マルクスが資本主義社会において労働者が搾取されている構造を鋭く分析したことを引き合いに出すまでもなく、私たちはこの「社会」が人間的なものではないことを感じている。過労死、ホームレス、鬱病、自殺…そうしたニュースが絶えることはない。テクノロジーが発展した今でも、社会は人間を追いつめている。

夏目漱石が約100年前に述べた次の分析は今でも当てはまる。

古来何千年の労力と歳月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んで来たのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば御互の生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだと云う自覚が御互にある。否開化が進めば進むほど競争がますますはげしくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化はかち得たに相違ない。しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔げられたという訳ではありません。(『現代日本の開化』)

走るということは、強制的なまでに他律として生きることを課す社会への反逆なのかもしれない。

自身の走りに集中すると、自分が呼吸そのものであるかのような感覚になる。動物としての「生」を感じる。「生」と「自由」はつながっていることを直感する。カントには申し訳ないが、ここでの自由は、理性ではなく、感覚で捉えるものだ。

「走ることは自由でなきゃいけないのさ」(『BORN TO RUN』)

走ることの意義を分析したり、理屈で説明することもできるだろう。

でも、今はそれを必要としない。なぜなら、自由を感じることが先だからだ。奪われた自由、走って取り戻す!



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