見出し画像

「人それぞれの社会」は「よい社会」か(『「人それぞれ」がさみしい』感想)

「人それぞれ」。私たちのコミュニケーションの潤滑油のような役割をはたしているように思えるこの言葉。筆者は「人それぞれ」をキーワードに社会や私たちのコミュニケーションのあり方に切り込む。

このような社会は、お互いの主義・主張を、批判もためらいなくぶつけられる「個を尊重する社会」と言いうるでしょうか。私には、主義・主張をぶつけ合うことよりも、対立を回避するために、他者に対する批判や意見を憚り、気を遣い合うことに重きをおいている社会に見えます。

石田 光規『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係』(ちくまプリマー新書、2022年)、33頁

青年期の研究分野で代表的な人物として挙げられるのがエリクソンだ。彼によると、青年期とはアイデンティティ(自我同一性)を確立する時期とされる。

そこで想定される友人関係は、お互いの内面をさらけ出し、率直に意見をぶつけ合うようなつき合いです、このような関係性は、自我を確立するにあたり、重要な役割を果たすとみなされてきました。

前掲書、45頁

しかし、近年の若者の友人関係の特性として、「気遣い」「ふれあい回避」「群れ」という志向があげられるという。つまり、青年期に友人と時にぶつかり合いながら自己を形成するという時代ではなくなったというわけだ。これは「人それぞれ」のもと、個人が尊重されるよい時代になったという単純な話ではない。筆者は以下のように指摘する。

「人それぞれ」という言葉には、一見すると、相手を受け入れているような雰囲気があります。しかし、この言葉は、一度発せられると、互いに踏み込んでよい領域を区切ってしまいます。それに加え、それぞれが選択したことの結果を、自己責任に回収させる性質もあります。

前掲書、50-51頁

どこで区切られるか分からない、うわべだけの探り合いの会話が続く。そのようなイメージを持てばよいだろうか。ではこうした人間関係から撤退すればよいと思うかもしれないが、一方で私たちは関係から切り離される孤立や孤独を避けたいとも思っている。

誰かと付き合うのも「人それぞれ」の時代は、友人関係を「コスパで選ぶ」ようにもなる。近年タイパという言葉が使われるくらい、私たちは対費用or対時間効果を無意識のうちに考えている。だが、そこには何か危険が潜んではいないのだろうか。

「自らにとってよい要素をもつ人を選択する」という原理を徹底させれば、「コスパ」という言葉に行き着くのもうなずけます。しかし、人間関係のコスパ化が進んだ社会では、自らもコストと見なされてしまうリスクを絶えず背負うこと、誰かがコストとして切り離されていることを忘れてほしくないものです。

前掲書、88-89頁

自分にとっての人間関係を「無菌化」していけばいくほど、自身も「菌」として排除される。このことを忘れてはならない。

「人それぞれ」の社会とは自己責任の社会でもある。そこでは、J.S.ミルのいう「他者危害原則」、つまり他者に危害を加えなければ自分の好きなことをしてよいという原則が貫かれる。だが、その「危害」とはやがて物理的な傷害以上のものを含むようになる。

自らお金を稼いで、そのお金を使うことで生活を維持する社会では、誰かに頼ることが難しくなります。というのも、誰かに頼る行為は、お金を稼ぐ努力の放棄や怠慢を意味するからです。つまり、誰かの手を煩わせるという事は、本人の怠慢や努力不足による「迷惑」となってしまうのです。

前掲書、112頁

時に沸き起こる生活保護バッシング。日本国憲法によれば、国民は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。だから本来、生活保護は「迷惑行為」ではなく、「権利」である。しかし、一度人々の「迷惑センサー」が働けば、生活保護受給者は肩身の狭い思いを感じ、またそれを表現して生活することが周囲から望まれるようになる。

むしろ、排除・孤立層の少なからぬ人が、両親に尊敬や感謝を抱くべきだと考え、また、「人に迷惑をかけることをしてはいけない」と強く感じています。だからこそ、排除・孤立層は、助けを求める声をあげることもなく、人の輪から穏やかに撤退していきます。

前掲書、125頁

コロナ禍で厚労省がわざわざ「生活保護は国民の権利です」と呼びかけるというのは、人々の迷惑センサーの強さの裏返しでもあるだろう。

結局のところ、誰にも迷惑をかけずに生きていくことなど、私たちにはできない。そんな「クリーン」な世界は作れないし、そのような世界の主人公に私たちはなれない。

コストとパフォーマンスという二元的な発想でつきあいを振り分けようとすると、ひとりの人には「コスト」(マイナス面)と「パフォーマンス」(プラス面)の両面が混在するという当たり前の事実を見落としてしまいます。というのも、「コスパ」の論理は、「身の回りの人間関係は、プラスの面をもつ人のみで最適化できる」という過度な理想をもとに成り立っているからです。

前掲書、180頁

「経済的な」とも「合理的な」とも表現できる関係性を超えた関係づくりを私たちはできるのだろうか。これはそう新しい問いではない。古くから友情をめぐる問いは発せられてきた。代表的な人物は古代ギリシャの哲学者アリストテレスだ。彼は友情を「実用」「快」「善」の3つに分け、「善」に基づく友情を友愛(フィリア)として重視した。何しろ、完全な友愛が存在すれば正義はいらないとまで述べている。

私たちは「善」という言葉をあまり使わなくなっている。「人それぞれ」の時代には、何か共通の善さを求めることが難しい。だからこそ、私たちはどのような社会を望み、どのような人間関係を作っていきたいのか、今一度見つめなおすべきだ。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?