「人それぞれの社会」は「よい社会」か(『「人それぞれ」がさみしい』感想)
「人それぞれ」。私たちのコミュニケーションの潤滑油のような役割をはたしているように思えるこの言葉。筆者は「人それぞれ」をキーワードに社会や私たちのコミュニケーションのあり方に切り込む。
青年期の研究分野で代表的な人物として挙げられるのがエリクソンだ。彼によると、青年期とはアイデンティティ(自我同一性)を確立する時期とされる。
しかし、近年の若者の友人関係の特性として、「気遣い」「ふれあい回避」「群れ」という志向があげられるという。つまり、青年期に友人と時にぶつかり合いながら自己を形成するという時代ではなくなったというわけだ。これは「人それぞれ」のもと、個人が尊重されるよい時代になったという単純な話ではない。筆者は以下のように指摘する。
どこで区切られるか分からない、うわべだけの探り合いの会話が続く。そのようなイメージを持てばよいだろうか。ではこうした人間関係から撤退すればよいと思うかもしれないが、一方で私たちは関係から切り離される孤立や孤独を避けたいとも思っている。
誰かと付き合うのも「人それぞれ」の時代は、友人関係を「コスパで選ぶ」ようにもなる。近年タイパという言葉が使われるくらい、私たちは対費用or対時間効果を無意識のうちに考えている。だが、そこには何か危険が潜んではいないのだろうか。
自分にとっての人間関係を「無菌化」していけばいくほど、自身も「菌」として排除される。このことを忘れてはならない。
「人それぞれ」の社会とは自己責任の社会でもある。そこでは、J.S.ミルのいう「他者危害原則」、つまり他者に危害を加えなければ自分の好きなことをしてよいという原則が貫かれる。だが、その「危害」とはやがて物理的な傷害以上のものを含むようになる。
時に沸き起こる生活保護バッシング。日本国憲法によれば、国民は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。だから本来、生活保護は「迷惑行為」ではなく、「権利」である。しかし、一度人々の「迷惑センサー」が働けば、生活保護受給者は肩身の狭い思いを感じ、またそれを表現して生活することが周囲から望まれるようになる。
コロナ禍で厚労省がわざわざ「生活保護は国民の権利です」と呼びかけるというのは、人々の迷惑センサーの強さの裏返しでもあるだろう。
結局のところ、誰にも迷惑をかけずに生きていくことなど、私たちにはできない。そんな「クリーン」な世界は作れないし、そのような世界の主人公に私たちはなれない。
「経済的な」とも「合理的な」とも表現できる関係性を超えた関係づくりを私たちはできるのだろうか。これはそう新しい問いではない。古くから友情をめぐる問いは発せられてきた。代表的な人物は古代ギリシャの哲学者アリストテレスだ。彼は友情を「実用」「快」「善」の3つに分け、「善」に基づく友情を友愛(フィリア)として重視した。何しろ、完全な友愛が存在すれば正義はいらないとまで述べている。
私たちは「善」という言葉をあまり使わなくなっている。「人それぞれ」の時代には、何か共通の善さを求めることが難しい。だからこそ、私たちはどのような社会を望み、どのような人間関係を作っていきたいのか、今一度見つめなおすべきだ。
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