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78回目の終戦の日に寄せて〜平和への祈り 人が人として当たり前に生きられる社会を〜

以前、別記事に祖父のことを少し書いた。
エリート軍人だった祖父だけど、軍人になりたくてなったわけではない。まして戦争に行きたかったわけでもない。
幼い頃から『神童』と呼ばれるほど優秀だった祖父は、周りの後押しもあって中学(今の高校か?)までは何とか進学したけれど、家にはその先の学費を用意する余裕がなかった。幼い弟妹たちのためにも明日からでも働かねばならない。海軍兵学校ならば、学費がかからない上に給料も出る。折しも、優秀な人材はエリート養成所へ送るべしという国の空気もあった。
そして、望むと望まざると、祖父の優秀さは、難関中の難関、最難関と言われるこの狭き門すら突破した。

100年も前の話、という勿れ。
現代においても、世界を見渡せば、生きるために軍隊に入る、いわんやテロ組織に入るなどという話はごろごろしている。長年、アフガニスタンの生活改善に尽くした中村哲医師は、「医者として救える命は限られている。だが、水があれば、それによって食物が採れ、仕事ができる。その方がはるかに多くの命を救うことができる」と仰っていた。灌漑工事に加わった現地の人は言う。「水が引けて食べるのに困らなくなれば、誰もテロ組織には行かない。テロリストになりたくてなるのではない。」と。

生きるために戦争をするなんて、この世における最たる矛盾だ。
人類は、なぜその矛盾を未だ克服することができないのか。
昨今の日本の暮らしにくさは、「これなら軍隊にでも入って戦争に行くしかないな」と思わせる政府の目論見では?なんて恐ろしいことを言っている人がいたが、そこまで極端ではないにせよ、この頃の政府のあり方は、ふつうの人がふつうに、ごく当たり前に暮らせる社会を創ろうとしているようには見えない。むしろ遠ざかっているように感じる。

祖父のように、生活のために、家族のために軍人になり、戦争に行くなどという悲劇は絶対に繰り返されてはならない。
78回目の終戦の日を前に、どうかこの記憶すべき日が、90年、100年・・と、未来永劫続きますように、と祈らずにはいられない。

ついでだからもう一つ書いておく。
「軍隊のお偉方がばかだったから日本は戦争を始めた」という声を聞くことがある。だが、日本中の秀でた頭脳を集めた兵学校出身者において、そんなことがあるはずがない。特に、日本が開戦に傾き、兵学校の門戸を広げるより以前に入校した人材は、世界情勢とその中での日本の立ち位置を正しく把握していたはずだ。

少なくとも、祖父はわかっていた。20歳かそこらで世界一周の航海に出て、主な都市を偵察した祖父は、米英の技術の進化の凄まじさを目の当たりにして、「ふん!そんなもの日本にだってあるわ!」と強がることさえできなかったと。
だからこそ、不穏な空気が濃厚になってきた時分に一時帰港した祖父は、祖母と伯父、父を連れ出し、銀座の梅林にとんかつを食べに行き、その道すがら、祖母に、「よく見ておきなさい。今にこの東京が焼け野原になるから。」と言ったという。軍人がそんなことを口にしたと漏れたら、どんな処分が待っているかわからない。だが、祖父は、言わずにいられなかったのだろう。そして、そうだとわかっていても、家族のために、生活のために軍人になった以上、命令には逆らえない。神国に生まれ、君主に仕えることが当たり前だった世の中、何をおいても天皇のために戦わなければならない。壮絶な覚悟だったと思う。
間違っても「ばかだった」とは、何も知らない人に言われたくない。心から祖父を誇りに思うたった一人の孫として。

もっとも、祖父はまだ若く、身分も平民で(郷里から海軍兵学校に合格した平民第一号だったそうだ)、参謀本部からは遠い。国の行方を決めた人たちの胸の内は、私にはわからない。それでも、海軍トップが、「一年かそこらは戦える」が勝つのは無理と読んでいたのは事実だろう。それを当時の政府に「そうか、戦えるのか」と判断されてしまったことが悲劇を呼んだと言われている。はっきり「戦争になれば負けます」と言えばよかったと。自分の目で世界を見て来た人たちにはわかっていたはずなのだ。

過ぎたことを悔やんでも仕方がない。だが、悔やんだことを繰り返してはならない。
『78年間、戦争をしていない』という日本の砦が守られますように。若き世代が恐ろしい争いに巻き込まれることがありませんように。
そして、全ての人が、当たり前に当たり前の、ごくふつうの暮らしが送れますように。
終戦の日を前にして、心からそう願います。

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