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出産は命がけ〜私が親になった日〜

今日は娘たちの誕生日。
まるまる昭和育ちの私は、『クリスマスケーキ』世代(25までに結婚できなければ売れ残り)で、結婚することも子供を持つことも、特に深い考えもなしに当たり前と思っていた。ただ、夫婦二人の時間がないのはつまらないので、子供を持つのは少し先でいいね・・と夫と話していた。

24歳で結婚し、大学受験を機に離れていたピアノを復活させ、毎夏、恩師の門下の演奏会に出させてもらっていた。結婚して三年経ち、その年の演奏会にはスクリャービンの幻想ソナタを弾いた。その仕上がりにけっこうな満足感があり、直後に思った。
次は子供だ。子供が欲しい!

夫は三人兄弟。私はひとりっ子。
それぞれの立場の良さを知っているから、ひとりっ子がいいのか、兄弟がいた方がいいのか、夫婦で言い合いになると面倒だから、「間とって双子がいいね」なんて言っていたら、本当に双子を授かった。ラッキー。
それを知った父方の親戚から、「また双子が出たって?んまー忘れた頃にねぇ」と電話が来たのには笑った。(双子の多い家系なり)

妊娠八ヶ月。双胎は、もう臨月相当のお腹の大きさ。
通常より一月早く出産休暇をもらうことになっていたが、それまでふんぞり返るようにして出勤していた。
産休に入ったらゆっくり出産の準備を・・と思っていたら、切迫早産になり、一ヶ月半の絶対安静入院。
トイレも食事もベッドの上で寝たまま。1mmたりとも起き上がってはいけないという。後半は、さすがに腰痛がつらかった。何せ、1mを超える腹囲(妊娠直前はウエスト56cmだったのに!)。重いのなんの。ナースたちには「小錦」と呼ばれていた。

予定日まであと二週間ぐらいになり、双子の大きさも十分に育ち、いつ生まれても大丈夫だからと退院することに。寝たきりにされて痩せ細った骨と皮のような足で、巨大なお腹を抱えて立つのはつらく、家から10歩20歩歩いただけで足が悲鳴を上げる。痛くて痛くて歩けない。あれはつらかった。

そして、予定日が GWをまたぐことから、医療体制が手薄なときに出産になることを危惧した外来の主治医が、「計画出産にしよう」と言い出し、再び入院。
陣痛促進剤を使って、処置室になんと四日。
ようやく陣痛が生じ、「あと30分で生まれるよ」と言われたのが午後2時半。
それからが正しく地獄。
分娩台に移され、いきんでもいきんでも出てこない。
骨盤が狭いのか?などと疑われ、陣痛の合間を縫ってレントゲン撮影。
異常はなさそうだということで、再びトライ。
自力では出てきそうにないとのことで、吸引が試みられる。
しかし、引っ張るたびに子供の心拍が止まるようになった。
これは危険だということで、急きょ帝王切開へ。
待合室で待機していた両親は、私が生まれた時の一件を思い出し、特に母は「akarikoも私と同じように危ない目に遭うのでは」と気が気でなかったようだ。
夫はもちろん、あと30分と言われてから1時間、2時間、3時間・・何が起きているかわからず、私がどうなっているのかもわからず、不安でたまらなかったと思う。
医師四人が立ち合い(入院中に親しくなった医師もかけつけてくれて心強かった)緊急帝王切開。
二人が生まれたのは、「あと30分」と言われてから、実に7時間後の午後9時半近くだった。
どれほどの痛みを味わったことか。
そのあと、ふーッと眠くなったので、母の恐怖を思い出し、死んでしまうのではないかと思い、「先生、すごく眠いんですけど」と言ったら、「あ、寝ていいよ」とあっさり言われ(お腹を縫うために笑気麻酔が使われていた模様)、あ、寝ていいんだ・・と思った次の瞬間スコン。

おなかの中で、二人の臍の緒が絡み合って、出られなくなっていたらしい。第一子の首に巻きついていたため、あれ以上引っ張ったら、子供の命が危なかった。頭に傷ができ、苦しい思いをした第一子は小さな体で様々な検査を受けたが、幸いにどこにも異常はなかった。
二人とも、元気に生まれてくれて本当によかった。

医師に、「もうお産はコリゴリでしょ?」「ごめんね、自然分娩の素晴らしさを味わわせてあげられなくて」などと謝られるほど壮絶な出産だったので、「双子は一度に済んでいいわねぇ」などと脳天気に言われると、殺意を覚えるほど(笑)
うっかりしたこと、言うものではありません。

こんなに大変だったお産ですが、娘たちはスクスク育ち、未だにのびのびと、同時に逞しく生きてくれています。
ありがとう。
そして、お誕生日おめでとう!!


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