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『透明だった最後の日々へ』感想

『透明だった最後の日々へ』は詩人でもある岩倉文也先生の初長編小説です。大学生で詩人の主人公リョウと、彼に憧れる情緒不安定なミズハ、そしてそんな彼女を愛している小説家を志しているナツト、3人のモラトリアムな日々を綴る本作は、著者の持ち味である繊細で虚無感のある文体が心地よく、流れるように読み終わってしまいました。

本作の特徴としては、3.11の震災を小学生の時に経験した主人公の、その捉え方にあると思いました。教室で大地震を経験した彼にとって、震災という過去はトラウマでありながら、どうしようもなく自分と不可分な要素であるということを常に考えているようでした。

本作を読み終わって奥付を見ているとき、タイトルにある「透明だった」というのは、果たしてどういう意味なのかをぼんやりと考えていたのですが、その時に全編通してひときわ思い出されたのが、下記の一節でした。

たしかにそれは過去だった。日を経るごとに色あせてゆく、過去でしかない。でもだからどうしたというのだろう?  ぼくは人間で、人間には現在しかない。ぼくの中に蓄積された記憶、印象、感覚、それらはぼくの脳裡に再現されるたび、現在になる。どうしようもない現在にだ。そこから逃れる術を人は持たない。

『透明だった最後の日々へ』より

過去はたしかに存在したはずのものだが、人間の認識はつねに現在にしかない。過去を思い返すときは、蓄積された記憶を常に現在の自分が再現しているわけで、そしてそれはひどく主観的なものです。

物語終盤、リョウは初恋の相手で、震災後に引っ越しをしてしまった「唯さん」と再会をする。離れ離れになってから10年以上、夢にも見た彼女に出会った彼は、しかし実際の彼女と出会いに言いようもない違和感を感じていた。「だれだ、この女は?」と。そしてそれと同時に、彼女との別れに結びついていた震災という出来事についても、自分自身のなかでの一つの物語に組み込まれていたのだと直感します。

とても個人的な解釈ですが、「透明だった」というのは、「過去は現在の自分が常に解釈し意味づけをしたものである」ということに自覚的になってしまった…ということかもしれないと思いました。それを自覚するまでは、ある意味で無邪気にそのドラマチックな過去を原動力に生きてきていたのに、気づいたときにはその思い出は色褪せたものになってしまう。そして、それが別に悪いことでもなく当たり前のことだと分かったときに、人はモラトリアムから一歩抜け出すのかもしれません。

おそらくですが、ナツトが「ミズハに救われた」というのも、そしてミズハと縁を切ろうとしたのも、同じように「救われた」という過去が、あくまで現在の自分が再構成した過去だったと思い至ってしまった…「もう透明ではなくなってしまった」からなのかなと思いました。

過去に傷を持つ彼らは、その傷ゆえに一緒にいて、しかしその傷を理解したときに一抜けしていく。とても繊細で素敵なモラトリアム小説でした。


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