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#2 対照的なものごとから、新たな1つの感情を生み出してみよう【漢文から学ぶ】

善と悪、光と影、現実とバーチャル、男と女など、世の中には2つ並べると違いがはっきり表れる、さまざまな対照的なものごとが存在する。

どれも本質は一緒だろ!とか、そもそも存在って何?とかいう問いは、大事だけどとりあえずおいておいて。(老荘的思想なのでいつか取り上げたい)

この"対照"という概念が中国の文学では非常に重要となってくる。

ちなみに、岩波国語辞典(8版)の対照の意味も一部抜粋しておく。

【対照】①ある物・事を他と照らし合わせ、つき比べること。「レントゲン写真と―する」「比較―」「―物」
②反対もしくは著しく異なる二つの物・事を並べる時、違いや特徴が一層はっきりすること。「―をなす」「―的」

※なお、この記事ではすべて対照となる物事は2つに限定する。2つでも大変なのに3つ以上の対照物をまとめることは私には無理なので。

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まずは前回の記事でも取り上げた、杜甫の「春望」から。

国破れて山河在り 城春にして草木深し(國破山河在 城春草木深)

前回書いた通り、山河があることや草木が生い茂っていることを言っているというよりも、自分の悲しみなどの感情を言葉に託しているんだけど、これは2つの時間軸を対照的に見た上でできた言葉である。

「国破れて山河在り」では、かつては田畑がきちんと整い家が立ち並んでいた平和な時代だった。しかし、その都が滅ぼされて今では山河だけが元の姿である。

この2つの事柄を対照的に考えることで新たな意味を創りだす。

「城春にして草木深し」も同じ。昔は都会だったのに今は草木が生い茂っている様子である。

このように、言葉だけではなく、2つの対照的なものから言葉が生み出されている。

対照的なんて無意識にできるから当たり前のことではある。

だが、このような昔と今の対照的なちがいから、現在の凄惨な状況だけでなく杜甫の感情が新しく表現されているということが、「山河在」という文字から見て取れる。

「草木深し」も同じ。対照的な意味を使って言葉の外に真意を読み取る形になる。人がたくさん住んでいた時代と、それがなくなって草木ばかりが茂っている今とを対照してできた結果この句が生まれた。

国都が戦乱で滅んでしまって昔はあんなに家々があったのに、今では焼け野原になってもうただ山々や長江の川しか見えないだけじゃん…ぴえん…とかいう意味が含まれているが、それをグダグダ言うよりもよっぽど美しい。



ちなみに、中国の対照的なものの考え方は対句や比喩、典故というのも同じ。

例えば比喩(譬喩)。渾沌王の話にある。

玉容寂寞として 涙欄干たり 梨花一枝 春雨を帯ぶ

玉容とあらわされた女の美しい姿と、春雨に濡れた梨の花とを2つ照らし合わせている。こうすることで、より女性の美しさが一層強調され、味わい深い情趣が生まれる。

このように、比喩は誰でもわかる例を使って表現することで、表面上の言葉とは別に奥深い幽玄な世界線を作りだしている。

もう1つの典故。

これは論語や史記などの古い古典の言葉をもちいて、自分の考えを古典に託して述べること。

こうすることで、自分の言う意見に権威をつけることができ、さらには古典が持つ複雑な背景まで解釈できるようになる。(じゃあ「先生がこう言ってたから!」という言い訳も、ある意味典故といえるのかな…?)

なお、比喩と違って典故は元ネタに対する知識や教養がないと相手はわからない。斯波先生は(参考文献を参照)貴族的とあらわしているが、昔から中国でもマウンティングとかあったんだね。


いずれにせよ、特に典故は過去の事実と今の事実を対照的に見て新たな意味を創りだすので、鑑賞者に新しい視点解釈をもたらす。

そのため、同じ言葉だからといって、似た意味にはなっても全く同じ意味にとらえられることはないのだ。

もっとも、対照的な意味から別の世界線で新しい意味を創ってしまうのは、単に中国人の民族性という言葉で片付けられてしまうのかもしれないけどね。

日本の対照的な例では、平家物語の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という対句が浮かぶかと思うけど、言ってしまえばこの1節はただリズムを作っているだけであり、何も生み出されない。

美しい一節なので私は大好きだけどね。日本文学専攻じゃないのでよくわからないんですが、もしほかの例があったら教えてください。

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前回も言った通り、対照的な概念から言葉に入りきらない新たな感情を生み出すことができる。

そのため、対照的なものは時に対立を生み出すこともある。些細なモヤモヤから戦争のような大事まで。でも、(さすがに人の殺し合いは嫌だけど)それは自然な事であり、その営みがあるからこそ新しい発見がある。

意見が同じ人となれ合っていても心地よく楽な環境だとしても新しい発見はできないし、新しい自分になるためにはいつかその心地いい環境から抜け出さないとならない。

自分探しを自宅のネットの中で行うというのも、考えてみればおかしな話かもしれない。

だから、私は対立が必ずしも争いを生み出すから対照的なものごとをなくすべきという意見もあるそうだが、これには賛同しかねる。

「対立したものをどう排除するか」「対照的な物事とどう向き合うか」よりも、「対立したものから生まれるものとどう向き合うか」が一番重要ではないかと思う。

善と悪は言葉で表せるものではないし、人によって正義も異なれば悪も異なる。変に型にはまったイメージにするくらいなら無理に言葉にする必要性もないわけだ(ちなみに、これが老荘思想の主張。私が好きな思想なのでまたいつかとりあげたい)。

ただし、ここでの対立は2つが対照的だった時の例である。たとえば五十歩百歩の違いなのか全く違う物事なのかは、自分の目で見抜くことが大事だと思う。


ちなみに、前回の記事と今回の記事のトップ写真。

どちらも撮影した場所は同じだが、朝と夕方、曇りと晴れといったように対照的にしてある。

じゃあ何か思うことはあるかと聞かれると、「我ながらきれいな写真撮れたなー」とか「noteの写真にちょうどよさそう」としか思わなかった。

…まだまだ修行が足りないようですね。


参考文献

・斯波六郎『中国文学における孤独感』1990年 岩波文庫出版

前回の記事と同様なので紹介は省きますが、すべてこの本から書いています。

詩人たちの孤独の感情をふんだんに詰め込んだ良書。漢詩が好きになると思います。

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