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目黒川花見ごみ問題における迷惑信仰

毎年花見の季節になると、ゴミが路上に散乱している問題がニュース番組やSNSで取り沙汰されます。その多くが観光客のモラルを指摘するだけでエネルギーを浪費してしまうようなもので、毎年何の解決にもならないなあと思います。

http://www.city.meguro.tokyo.jp/oshirase/megurogawasakura_manners.html
(執筆時点ではゴミの持ち帰りをお願いする旨の通知が表示されています。)

私もゴミは酷いなと思っています。しかし、観光客のモラルや町会の努力に頼っているのではこの問題は解決しません。観光客は飲み食いして出たワイングラスやトレイなどをずっと手に持ったまま、写真を撮ったりしながら数時間混雑の中を歩いたのち、それらを電車で持って帰ることを求められているわけです。(一応公共のゴミ箱は設置されているそうですが、観光客への周知が徹底されていない問題の様です。)

こういう問題を 地元住民 対 観光客 だけの構図としてしまい、強い口調で観光客のモラルを正すのが正義のような狭い視野の正義を振りまく風潮には強い不快感を覚えます。人間は善悪を超えてゴミを捨てます。それを前提にしないとこうした問題の解決は図れないのではないでしょうか?興行主はゴミの問題にどう対処しているのでしょうか? ... 実は同等の構図の問題が世の中にいっぱいあるような気がしています。タバコの問題(喫煙者と受動喫煙者だけの問題にしていませんか?)、待機児童(親子と自治体だけの問題にしていませんか?)などなど。

迷惑信仰

迷惑を受けた側が迷惑をかけた側を強い言葉で糾弾して消耗するという図をよく見かけます。私はこれを迷惑をかけた人が何事においても圧倒的に悪く、迷惑を受けた人は何を言っても良いという、「迷惑信仰」と呼んでいます。なぜいつも当事者同士の問題にしてしまい、もっとも重いと思われる、仕組みを設計した主体への責任性に議論が至らないで解決を見ず終わってしまうのでしょうか?理由はよく分かりませんが、どうも私たちの社会は封建的というか、一人ひとりが社会をデザインする主体である(民主主義)という意識が深くは個人には定着していないようです。そのため、当事者たちの想像がデザインする側の責任性に至らないようなのです。当事者だけの問題にするのは止めませんか?

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