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学校で習った「一向宗=浄土真宗」は正しくないというお話

※画像は本願寺第11世・顕如(けんにょ)の肖像。

 戦国時代、一向一揆を率いた僧侶の顕如は、しばしば「信長を最も苦しめた男」と言われる。

 信仰で結びついた民衆の頑強な抵抗に、信長は徹底的な殺戮で応えた――というのが、一般的な一向一揆のイメージだと思う。

 もともと、戦国期の一向一揆の研究は蓄積があまり多くなく、「民衆が権力者に抵抗した」というざっくりしたイメージが先行していた。しかし、近年の研究は一向一揆の姿を少しずつ明らかにしつつある。

一向宗と浄土真宗は同じではない

 多くの人は、歴史の授業で「一向宗は浄土真宗の別名」と習っただろう。しかし、こうしたとらえ方には注意が必要だ。

 一向一揆の中心となったのは、浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)の子孫が代々住持となっている本願寺派である。高田派や三門徒派など、親鸞の弟子から派生した浄土真宗の諸派は、一向一揆には加わっていない。

 15世紀になって本願寺派を発展させたのは、本願寺第8世の蓮如(れんにょ)である。本願寺派は、他の真宗諸派への対抗上、親鸞から続く血筋を権威化した。本願寺のみを至上の権威とする価値観は、多くの戦国大名の脅威となり、一向一揆が禁圧される要因となった。


 一揆に加わった門徒たちが信仰していた「一向宗」は、親鸞の教えだけではなく、念仏信仰や時宗の要素など、民間の呪術的信仰を雑多に含んだものだった。特筆されるのは、本願寺に帰依することで極楽に往生できるという、本来の親鸞の教えにない教義である。本願寺教団のために戦うことで救済されるという思想で、門徒たちは団結したのだ。

 一向宗の教義は、何の宗派なのかを決めるのは難しく、自然発生的に生まれた民間信仰だといえる。そうした事情から、蓮如は「真宗は一向宗にあらず」と力説している。

一向一揆は民衆の抵抗だったのか

 また、「一向一揆は権力者に対する民衆の抵抗」という見方も改める必要がありそうだ。一向一揆の参加者は農民など下層の人々に限らず、武士など様々な階級もふくんでいたからだ。

 1488年に起きた加賀一向一揆の経緯を分析すると、興味深い事実に至る。まず、応仁の乱後の混乱した加賀では、守護の富樫幸千代(とがし・こうちよ)と兄の政親(まさちか)の間で内紛が起きていた。真宗高田派が幸千代を支持した関係上、本願寺派は政親を支援し、政親が勝利する。

 ところが、その後本願寺派は政親と対立し、守護の一族である富樫泰高を擁立して政親を自刃に追い込んだのである。つまり、加賀国内の政治抗争に本願寺が介入したに過ぎないといえるのだ。

 各地の門徒衆に対して蜂起の指令を出す本願寺は、多分に世俗的な政治力学の中で動いていたのである。


(本稿は、筆者が寄稿した「最新研究が教えてくれる! あなたの知らない戦国史」(辰巳出版)をもとにしています)


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