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UNDER TSUNDOKU 読まない読書会

つんどく【積読】
入手した書籍を読むことなく自宅で積んだままにしている状態を意味する言葉

https://ja.wikipedia.org/wiki/積読

UNDER TSUNDOKUとは、私と姉、2人で「読みたい本」を共有する月1回の読書会だ。
部屋に溜まっている「読めていない」本という物理的な積読ではなく、まだ買えていない、読んでいないが読みたいと思っている心の中に溜まっている読みたい本たちの積読。そんな積読がある人も少なくないのではないか。
そのような本たちはまだ心の中に隠れている、もっと言えばまだ認識もされていない意識下にあるという意味をこめて読書会の名前を「UNDER TSUNDOKU」と名付けた。

この読書会の最大の特徴は「まだ読んでいない本」が読書会のテーマという点だ。

読書会は特に「読む」行為を中心に置かれている。例えば東京・赤坂にある書店双子のライオン堂が執筆した『読書会の教室』で読書会はこう定義されている。

一つだけ読書会について提案してみます。「本を読むことが目的になっている集まり」を、本書では読書会と呼んでみようと思います。

『読書会の教室』P14 l13-

しかし、本当に本は「読む」だけなのか。
読むという行為から少し外れて考えてみても良いのでは?という思いが以前からあった。もともと本という物質性が好きで、本を読むのが苦手だったのに書店に行くのは好きだった私の経験がこの読書会の発想の起点になっている。

「買う」「読む」本はごく一部

「読む」とか「買う」等の行動まで至る本はごくごく少数だ。
その行動に至るまで順序があり、その法則の一つに「AIDMAの法則」がある。この法則は消費者の購入行動の順序を表した法則だ。

AIDMAの法則

その法則によれば人が物を買うときには
「注意→興味→欲求→記憶→購入(読む)」の流れを踏んでいるという。

1冊の本を例にとれば、
ある本を本屋で見かける(認知; Attention)
そして表紙を見て、おもしろそうと興味を持つ(興味:interest)
立ち読みして中身を読んでみたら、自分の関心がある内容だったので読みたいと思う(欲求:Desire)
しかし買うにはまだ躊躇するので一旦買わずに帰る。その時に忘れないように本のタイトルをメモする(記憶:Memory)
悩んだ結果、書店に再度出向きその本を買う。(行動、購入:Action)

この流れからもわかるように興味を持ってから、行動(購入、読む)までにはいくつかの段階を経る。その段階を経るたびに何らかの理由で絞られていく。そのため実際に行動に達する本に比べて興味を持った本は遥かに多く、多種多様だ。
雑誌や動画等のメディア、知人からの紹介、書店に立ち寄った時に見つけた本、ふと「気になった」本たち。このように行動まで達さず水面化で漂っている本たちのことを「心の中の積読」と定義した。

「心の中の積読」の特徴

このような「心の中の積読」はいくつかの特徴を持っている。

①小さな興味、関心ごとが反映されやすい。

「購入」までの段階を経る中でさまざまな理由で脱落する本たちがある。特に購入は金銭的な部分、収納スペース等物理的な問題等制約があるため、「自分の興味関心事に密接している」本を選びがちだ。そのため面白さが保証されている好きな作家を買うなど保守的な選択になりやすい。

一方で「欲しい本」は、そのような制約が取り外される分、ジャンル、分野の本が幅が広くなる。小さな小さな関心が「欲しい本」には反映されやすい。

<例>
ここで2人の例を取り上げる。
最近購入した本と、興味は持ったが購入まで至らなかった本3冊をピックアップした。真ん中の本が購入した本だ。

筆者の最近購入した本1冊と、購入に至らなかった2冊

特に今回は「なぜ買わなかったのか?」という点に着目する。

左)クリスチャン・メンデルツマPIG05049』
豚の加工した商品が紹介されている本だ。豚=食肉のイメージのみを持っている人が多いが(私を含め)生活の至る所に豚の加工品があるということを実感できる。こういう図鑑的に網羅的に取り扱う本が好きなので買おうと思ったが、値段を確認したら本を買うにはかなり躊躇する値段でその場にそっと戻した。

右)多和田葉子『カタコトのうわごと』
ドイツ在住の作家多和田葉子は母語ではないドイツ語でも小説を書く。言葉を仕事にしている作家である上に、自身の母語の外に出て文章を書くという言葉のプロが書いた言葉の省察は再度私が言葉に対して考えさせられた。しかし、多和田葉子の本はパッと理解するのが難しい小説家でもあるため内容が読みきれず購入はしなかった。

もう1人の例も見てみよう。

左)岸政彦監修『沖縄の生活史』
この本は高い、厚すぎて重い。そして同じシリーズ『東京の生活史』を2年以上積んでいるから。しかし生活史+沖縄という自分の興味分野、かつ厚すぎて図書館で借りるというよりは、家に置いておいて一編ずつちまちま読むタイプのものだと思うので、いつかは買って読みたいと思っている。

右)ティム・インゴルド『応答し、つづけよ。』
この本は行きつけの本屋の店主に勧められて読みたいと思った。しかしシリーズ物で、まだ一作目の「ラインズ」を読んでいないためまだ読んでいない。

以上のように行動(購入)に至らなかった理由は様々でありながらも、何かしらの興味によって積読フォルダにしまった本たちだ。

②人と共有されることが少ない

購入した本は共有されることは多いが欲しいと思っている本についてわざわざ人と共有する場所というのより少なくなる。

消費者の購入行動の流れの法則は先ほど出てきた「AIDMAの法則」以外にもいくつか存在するが、昨今のSNS等を環境を考慮したAISASの法則がある。
その法則によれば、購入の後の段階にShare(共有)が入るそうだ。
このように人に共有する本は「購入した本」「読んだ本」が多く、心の奥に隠れて本たちは表にでず誰かと共有することが少ない。

逆に考えればこのような特徴を持っている「読みたい本」を共有すれば面白い現象が起きるのではないかと思う。
一つ目は、欲しい本を相手に伝えるために、なぜ数ある本の中で“その本“に関心を持ったのかというのか言語化できるからだ。AIDMAの法則でもあるように、認識、興味、欲求はわざわざ言葉を動員することではなく過ぎ去ってしまうことが多い。そのため改めて自身の興味、欲求を認識することができる。それは相手も同じで普段表面化していなかった相手の知らぬ面も見つけることができる可能性もある。
何より、気軽に始めやすい。本を読みたくても時間が取れない人でも「読みたい」と思っている本を抱えている人は多いだろう。そして読書会をする前に読まなくてもいいのでいつでも始められる。

まとめ

私は本という存在が気軽であって欲しいと思っている。
本を読むという行為は賞賛の対象になりやすい。小中学生の時から読書の時間が設けられていたり、大人になっても本を読んだ方が良いという漠然とした社会的圧力は度々遭遇する。
積読という言葉も、本を読む人、本が好きな人が好きという気持ちが溢れて購入スピードが自分の読むスピードが超過してしまうというポジティブな意味もあるが、「本を読む」という行為が重視されるあまりに「本を読めていない」状態をネガティブ的に表現した言葉でもある。
そんな「本を読む」という負担感ではなく本を一冊読めなくても、「いいな」と思う軽い気持ちだけで本を通した交流ができたら良いと思っている。

本を読まない形でも本を愛することができる。

何よりも本が好きでも本を読むことが苦手でそのことがずっとコンプレックスだった過去の私にこのことを伝えたい。




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