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終わりに近づく世界であんたは

 あんたと初めて会った日のことを、今も鮮明に覚えている。
 あれは、うちの近所の銭湯だったよね。風呂上がりのあんたは、鏡の前で、別にそこまでいい身体でもないくせに執拗に自分の三角筋をいろんな角度から眺めてた。ああっおぞましいっ、と思って見てたら、あんたの右耳に流し忘れの泡がついてるのを発見してしまった。鏡の横のエアコンで体を冷やしていた俺は、なんでそんなことをしたのかわからないけれど、思わずあんたに声をかけた。泡、ついたままですよって。うそっ! とすぐに声を上げたあんたは、どっからどう見てもおかまで、我慢できずに笑っちゃった。
 銭湯から出ると、道を挟んで向かい側にある自販機の横に、あんたが立っていた。
「あの、さっきはありがとうございました。お礼、言いそびれちゃったから」
「そんな、全然、大したことしてないです」
「違ったら申し訳ないんだけど、あなた、駅の裏のカフェの……」
顎に手を添えながら、探るような目線を送られる。
「あ、そうです。もしかして、来たことあります?」
 といっても、俺がそのカフェで働き始めたのはまだほんの最近のことだったので、お客さんの顔なんてよく覚えていない。
「たまに行くんです。なんか不思議、さっきまで裸だったのに、急にこんなに改まっちゃって」
 ふふふっと笑うあんたに、ああ、本当に見るからにわかりやすいおかまっているんだな、かわいそうだなと思った。反面教師だ。
 その後、あんたはよく俺の勤務するカフェに来るようになったよね。うちらが仲良くなるのに、時間はかからなかった。たぶん、よく似てたんだと思う。
 あんたは初めから、まるで決めつけるみたいに(実際そうだから別にいいんだけど)、俺のことをゲイだと判断し て、特に隠すこともなく当然のように振舞ってきた。昨晩会った男がひどいにおいのコロンをつけていたことや、会社の上司が結婚しないのかとセクハラ発言を連発してくることとか、すぐに俺に愚痴り始めた。その距離の詰め方が、なんか心地よかったんだよね。
 たぶん、あんたがよくカフェに来るようになって一カ月たったくらいかな。急に、あんたは俺を正面から見据えた。
「そういえば、あんた名前なんて言うの? ってゆーかまだ知らないのやばくない?」
「マジだ。うちら名前知らなかった。ヤバ。俺は、和也」
「え、それ源氏名?」
「ううん、本名」
「漢字は?」
「タッチのカっちゃんと一緒」
「へぇ……あんたも、カズヤって言うんだ」
「え、うっそ、あんたも?」
「そう。数字の一にキムタクの哉で、一哉」
「ヤバ、キモい、同じ名前なの? 勘弁して~」
「私が本物のカズヤってことでいい?」
「待って、なんで?」
「私はキムタクのカズヤだからね。あんたは達也にしな。
そうすれば死なない。生き残れるわよ」
 生き残れるわよ。それって、今思えばすごく皮肉な言葉だったよね。

 ねえカズヤ、あんた今、ちゃんと生きてる? あんたのままで、暮らしてる?

   〇

『うちら』の世界が崩壊するのは、本当にあっという間だった。例えるならばそれは、徐々に掃除機のダストボックスに蓄積される微細な綿埃や、出窓に干したままの黒いTシャツが、段々と日に灼けて赤くなっていくのに似ていた。肉眼ではわからなくて、進行が遅くて体感もない。それでも『アレ』は、到底私たちがかなわないスピードで、人類を蝕んでいった。
 ううん、人類じゃない。標的は、『うちら』だった。

   〇

 なるべく田舎がよかった。空気がきれいで、観光資源がなくてよそ者が来ないところ。派手な生活はできなくていい、つつましく、自分ひとりだけ食わしていければそれでいい場所。
 この島はうってつけの場所だった。本州からの連絡便は、二週に一往復だけで、それだって本当に島民がたまの用事に使うだけで、ほとんどクローズドサークル状態。住民は百人に満たず、若者はみんな本州に出て行ってしまっている。終わりに向かう島。俺はそこに転がり込んで、終わりに向かう『うちら』の世界に縋り付いている。
 今、俺が住んでいる家は、島の中でも比較的奥にある、灯台のすぐ近く。とてもきれいとは言えないけれど、家賃なしでこの家を使えるのはとてもありがたい。
 網戸越しに聞こえるセミの鳴き声で目を覚ました。顔を洗って、作業着に着替えてから隣の母屋に向かう。引き戸を開けると、玄関は薄暗く、板の間にはもっと早い時間に英雄さんが勝手に来て置いていったであろう、発泡スチロールの青い箱があった。ふたを開けると、そこには茶色のボディに蛍光グリーンの筋の入った、カラフルな魚が何匹か入っていた。カワハギかな。見開かれた瞳がぶどう味のグミみたい。
「芳江さん、おはようございますーっ!」
 魚を見ながら、奥のほうに声をかける。すぐに、はーいという返事とともに、今朝は早起きねと声だけが返ってくる。
「暑くて起きちゃった。ねえ、麦茶もらっていい?」
「冷蔵庫に貰い物のオロナミンCがあるから、それ飲んでってちょうだい」
 芳江さんはまだ支度中かな。遠慮せず、靴を脱いで上がり込む。台所に向かうと、テーブルの上には昨夜の残り物なのか、瓜とタコの煮物と一口分の卯の花が、ラップをされて置いてあった。冷蔵庫のオロナミンCをいただきながら、卯の花もつまみ食いした。綿飴みたいに優しい味。
 じゃらじゃらと玉のれんを揺らしながら、身支度を終えた芳江さんがやってきた。
「あれ、そんなエプロン持ってたの? かわいい柄」
「たっちゃんはよく気が付くわね、そういうの。孫が送ってくれたのよ、昨年の敬老の日に」
「へえ、素敵。お孫さんおいくつ?」
「今年小学一年生よ」
 言いながら、芳江さんはスマホをポケットから取り出して、素早い動作で孫の写真を見せてくれた。利発そうなかわいい男の子だった。
「たっちゃん、朝ご飯は食べたの」
「ううん、この卯の花、勝手にいただいちゃった」
「そう。お味、どうだったかしら」
「おいしかった。ねえ、今度俺にも教えてくれない? 卯の花炊いたことないんだよね」
「ふふふ。なんか本当、たっちゃんて娘みたい。楽しいわ」
 大きな魔法瓶に麦茶を入れながら、芳江さんが微笑む。
 魔法瓶を受け取ると、一緒に芳江さんの家を出た。朝日はまだ、そんなに高くない。山の方にはまだうっすらと夜の気配が居残っている。
 これから、芳江さんの畑の農作業のお手伝いだ。お昼ご飯を頂いてから、午後は島で唯一のガソリンスタンドで経理の仕事をした後、島の青年部に呼ばれているのでそこの飲み会に参加する。
 そんな風な毎日を、俺はこの島で送っている。ありがたいことだと思う。でも、元の生活がやっぱり恋しい。

   〇

 アジア最大級のゲイタウンである新宿二丁目が陥落したのは、ノンケウイルスが全世界に蔓延し始めて半年もかからなかった。おそらく、一番初めに日本国内でノンケウイルスが検出されたのは、二丁目の外れにある発展場だったという。そこからどんどんと被害は拡大し、発展場やゲイバーの営業は不可能な状態となった。続いて、上野が陥落。飲み屋がしぶとく生き残ろうとしていたらしいけれど、それもやがて適わなくなった。その後、新橋と堂山、浅草、野毛と墜ち、栄や博多、仙台は瞬殺だったという。立地上、沖縄だけが最後まで残っていたけれど、助けを求めるゲイたちが一気に流入したこともあり、すぐに感染が拡大、陥落した。
 サイコバイオティクスβ 『セルチニア』、通称ノンケウイルス。ウイルスとみんな呼んでいるけれど、厳密にいえば『ソレ』は腸内細菌で、もともとはヨーグルトや発酵食品に入っていた細菌が祖になっているという。もともとのサイコバイオティクスは腸内の健康補助の役割が強かったけれど、二〇一三年のアイルランドの学者の研究で、サイコバイオティクスの中には人間の性格や感情のコントロール、行動に影響を与える種があることが発表された。うつ病や不安障害などに対してポジティブな影響を与えることができる、新しい治療法として期待された。しかし、その裏ではイスラム教の過激派が数国の軍隊と手を組み、多額の資金をもとにサイコバイオティクスの軍事利用化の研究を勧めた。なにがどうなってそうなったのかは知らないけれど、開発されたサイコバイオティクスβ 『セルチニア』はとても軍事利用できるような効果は生めなかった、つまり、人間を狂暴化させたり逆に強制的に精神障害を発症させたりということはできなかったのだけど、その代わり、脳内ホルモンの分泌量に関与することで、なぜか男性同性愛者に限って「性的志向」を変化させる、という謎の性質が宿ってしまった。というのがWikipediaのサマリー。
 軍事利用はできないけれど、同性愛者は抹殺したいということで、過激派は『セルチニア』を一般市民の感染経路に乗せた。ここには、イスラム教とヒンドゥー教の権力者の圧力がかかっているとか、少子化による人口減に悩む先進国が裏から手を引いたとか、いろんな憶測が飛び交っている。
『セルチニア』に感染したゲイは、次々とノンケになっていった。受益者も提供者もいなくなったゲイ産業はすぐに衰退し、文化そのものが消えていく。厄介なのは、『セルチニア』はそれ自体が常に進化し続けており、タームによって感染の方法が変わってしまうということだ。粘膜接触のみかと思いきや、飛沫感染、接触感染。今は、広域の空気感染へと変異した疑いがかかっている。
 もっと厄介なのは、このパンデミックには被害者がいない、ということ。だって、ゲイがノンケになるだけ。それで困るのは、同胞を失ったゲイくらいだし、そのゲイたちもやがて感染してしまえば、別に何の被害意識も残らない。
 最初のうちはLGBT支援団体や人権団体が各国政府の対応の遅さに抗議をしていたけれど、そのうち聞こえなくなってしまった。
 ノンケウイルスは、誰も傷つけない。だから世界は、ノンケウイルスを拒絶しなかった。

   〇

 あんたの話はいつだって面白かったし、ヤバい話もたくさんあったけど、一番ひどくて、そして俺が好きだったのはやっぱりあの話だな、ゲロ事件。
 何のことはない、あんたがただ男に振られたってだけなんだけど、なんであんたって、こうも不幸が似合うのかな。なんでいつも、明るいバッドエンドを奏でられるのかな。
 ツイドルもどきみたいなガチムチの若い子に入れ込んでいたあんたは、それまでの恋愛とまったく同じように、急にいい女を気取って尽くし始めた。すぐに合鍵をもらい、相手の仕事が終わる前には忍び込んで夕食と翌日の朝食を作り、ワイシャツにはピシッとアイロンをかけて、ルンバがあるのにそれに負けじとアナログ掃除を徹底していた。
 彼が疲れていれば無理に一緒にいることはせず、休みの日も常に彼の予定を優先し、それでもいつ呼び出されても駆け付けられるように彼の家の一駅となりのドトールに待機していた。そして俺はよく暇つぶしにそこに呼び出されていた。
「この待機時間、めっちゃ不毛じゃない? 生産性ゼロなんだけど」
「わかってる、わかってるのよ……でもこうやって、何をするにも頭に『彼氏のため』ってつければ、なんかほっとするっていうか、付き合う資格が与えられる気がするっていうか」
「重い女ね。そんなの、すぐに捨てられるよ、また」
「やめて~自分でも薄々気づいてるから……」
 それから二週間して、すぐに彼氏の浮気がツイッターを経由して発覚した。これもいつものことだし、それに対して人生で一番の地獄だとあんたが嘆くのもいつものことだったよね。もはや伝統芸。
 でも、そのときのあんたは特に冴えてた。彼が大好物だと言っていた、あんたの作るフレンチトースト(ためしてガッテンで紹介されてたやつ)を、あんたは一心不乱に大量生産した。それを全部ひとりで平らげると、口の中に指を突っ込んで、一気にごみ袋の中に胃液とともに吐き出した。前日に食べたわかめも混ざってしまったって言ってたよね。ウケる。吐瀉物でいっぱいになった袋の口を縛って、段ボール箱に詰め込み、クール宅急便で彼氏の家に送り付けた。内容物明記の欄には「遺品」。
 あと、別の男との別れの時の話だけど、リベンジポルノの代わり「最後に一度だけ抱いて」と懇願して、隠しカメラを設置して、セックスをcom.4で全世界に中継したり(ラストセックスお茶の間事件)、また別の男の話だけど、相手の家で別れ話をされて、帰りがけに男の世話しているアクアリウムに、あらかじめ予感してペットボトルに隠し持っていた自分のおしっこを混ぜ込んで帰ったり(熱帯魚虐待事件)と、あんたはまさにネタの宝庫だった。自分の傷を癒すのではなく、傷ついたことの証明のためにその時持てるだけの全エネルギーを費やすあんたを、面と向かって言ったことはないけど、かっこいいと思っていたし、憧れていた。

   〇

 芳江さんの畑に実るトマトは、とても小さい。でも、自分の顔が映りこんでしまうんじゃないかと思うくらいピカピカで、そして味が濃い。
「トマト、もう収穫終わっちゃうね」
 畑道のふちに並んで座り、芳江さんに麦茶を渡す。
「そうね、うちのは他より時期が早いから。これからはトウモロコシとか、その辺かしら」
「もっとたくさん育てたらいいのに、トマト」
「育てたって、食べきれないじゃない。農協がたくさん買い取ってくれるわけでもなしに」
「そうだけど……俺、すごく好きなんでよね、芳江さんのトマト」
「たっちゃんがトマト好きなの、ちょっとわかるわ。たっちゃん、トマトと似ているものね」
「えーひどい、なんで?」
「えっと、ほら、顔の形なんてそっくりよ」
「やめてよ、気にしてるのに」
「むくみにはバナナがいいのよ。というか、たっちゃんは夜更かししすぎ。それが原因よ。早く寝なさい」
「ふふふ、芳江さん、お母さんみたい」
「もうほとんどお母さんみたいなもんじゃない」
 本当に当たり前みたいにそう言う芳江さんの目尻に、皺が寄る。俺がここに来たのは一年半前くらい。その時より、芳江さんの皺は増えたみたいに見える。エイジングケアの商品がこの島で手に入れば、すぐにプレゼントしたいんだけどな。
「さ、今日はもう終わりにしましょう」
「オッケー。今日のランチは俺が作るよ」
「ランチ、ですって。素敵ね。ドラマみたい」
「え、じゃあ昼食?」
「ランチでいいじゃない、ランチ。今流だわ」
 ランチ。確かに。この街にはランチ営業してるお店なんて存在していないし、そんな言葉を使う人もいない。東京の普通がここにはない。東京とこの過疎りまくりの島との経験の格差は、決して見過ごしていいものではない。医師不足で島民は満足な高度医療も受けられないし、子どもたちは習い事を受けられない。高校も結婚式場も郵便局も、火葬場も美容室もない。
「それじゃあ今日は、パスタにしちゃう。カフェご飯」
「洒落てるわね。楽しみ」
 嘆いてはダメ。生きるために、生きるって決めたんだから。

   〇

 俺も、あんたに負けず劣らず男運がないことは認めるよ。保険営業の男のために不要な保険に加入したこともあるし、ってゆーかその保険料いまだに払い続けてるし、財布からいくらか盗んでいく男もいた。でも、泰造は悪くなかった。というか最高だった。あんたも気に入ってたよね。
 泰造と出会ったのは、新宿二丁目にあるカフェだった。平日休みで時間を持て余していた俺は、同業者のお勉強もかねて一人、窓際のカウンター席で本を読んでいた。この店のコーヒーはとても深い香りがするのに、味が軽やかで好みだった。
 店には俺以外にお客はいなくて、ちょっとハードなロックのBGMと、窓の外に見える散り際の桜の木と、おいしいコーヒーがあって、ああ最高だなあと悦に浸っていた。
 と、もう一人客がやってきた。それが泰造だった。一目でゲイだなとわかる見た目は、嫌いじゃなかった。
 彼はレジで注文を済ませると、なぜか俺の右隣に座った。こんなに広い店内なのに、なんでわざわざ? うっそ、え、ドギマギしてるのを悟られないように、窓の外の親子連れを凝視する。と、右隣に座る彼は、わざとらしく左手をぶらんと横に投げ出した。こんな経験は初めてで、鼓動に合わせて建物全体が膨らんだりしぼんだりを繰り返しているみたいだった。どうしよう、これって応じるべき? でも、そんなに簡単に誘いに乗る男だと思われていいの? いや、でももう会えないかもだし、かっこいいし。
 さんざん無意味な自問自答を繰り返してから、観念して右手を横に放り出す。お互いの手の甲が、かすかに触れた。そこに全神経が集中したみたいな感覚に、顔が熱くなる。彼は手の甲をわずかに押し付けてきた。逃げないでいると、それを合図にして、彼は俺の方を向いた。
「よく来るんですか、このお店」

「えー! 何その出会い、めっちゃ少女漫画じゃん、何なの? タツヤばっかりずるくない?」
 まったく同じカフェで、五日前の出来事をあんたに報告した。あんたは半狂乱で食いついてきたよね。
「どの席よ! どの席でそんな淫らなことしてたのよ!」
「そこの右側のカウンター席」
「はーやだやだ。これだからおかまっていやだわ、どこでも出会おうとするんだから」
「いやほら、運命だったから」
「うっざ。で、そのあとどうなったの?」
「そのあと、食事して、あ、ほら三丁目の地下にあるイタリアンの、なんて言ったっけ」
「店なんてどうでもいいのよ! やったの、やってないの?」
「えっと、夕飯食べて、カラオケして、終電超えちゃってうちに泊まって、まあ、いたしました」
「じゃあ付き合ったりはしてないのね。ワンナイトね。はあよかった、安心安心」
「あ、いえ、実はその次の日も会いまして、というかそこから毎日一緒にいて、晴れて付き合うことになりました」
「ちっ!」
「ええ、今まさか舌打ちした?」
「嘘よ、おめでとう。一応祝うけど、あんた私に似て男運ないから……今度の男が、あんたの本物だといいんだけど」
 急に、あんたは聖母マリアみたいな顔をした。あふれ出るお母さん感。そんなんだから、やっぱりあんたはモテないんだけど、俺はあんたのそういうところがすごく好き。

 ねえカズヤ。あんたと何度も通ったあの二丁目のカフェは、オーナーがノンケだったから、今も変わらず、あの街にあるよ。
叶うならまた、あのソファ席であんたと話したい。

   〇

 青年部の飲み会は、拍子抜けするほど小規模だった。参加者は俺を入れて五名。車社会の田舎では、飲み会の頻度は極端に少ない。みんな日ごろ溜めているものを一気に吐き出すみたいな飲み方をするのかと思いきや、まったくそんなことはなかった。まあ、青年部といっても四十代以上の人しかいないし、当たり前といえば当たり前かも。
 それでも、久々に誰かと飲むお酒は美味しかったし、少し酔ってしまった。家に帰ってからも、買い置きしてあった缶チューハイに手を付けてしまった。
 俺の今の家は平屋で、間取りで言えば2DK。一人にはちょっと広すぎる。
 海側の窓を開けて、淵に腰を掛ける。うっすら香る潮風と、まぶしいほどの満月の光。星は見えなかった。
 母屋の方を見ると、部屋の電気は全部消えていた。まだ九時前だというのに、芳江さんはもう眠ってしまったみたい。
 酔いが回ると、急に人恋しくなってしょうがない。これは本当に厄介で、まずこの島にはおそらくゲイが俺以外にいなくて、したがって人の温もりは望めない。ノンケウイルスのせいでゲイ産業は衰退したので、動画などのおかずの調達も難しい。ひとりでやるときはもっぱら妄想でやるしかなくて、これは結構大変。
 それでも出すもんは出さなくてはいけないので、そっとズボンの隙間に手を差し入れ、萎えたままのチンコをいじる。最近想像するのは、泰造とのセックスの記憶ばっかりだった。
 オナニーをよくする。でもこれは別に、俺の性欲が強すぎるからではなく(いや強いけど)、自分の『未感染』を確認するための作業だった。ノンケAVは見ない。もし女優を見てイってしまったら立ち直れない。男の裸、セックス、痴態だけを想像し、興奮し、果てる。その一連の作業を終えて、俺は今日も無事に生き残ったんだって実感して安心して、ちょっと泣きそうになるのを毎夜繰り返してる。

   〇

 あんたがグリーンランドに行くことを決めたのは、ノンケウイルスが日本に上陸して間もないころで、まだうちら一般人はその存在さえ知らなかった。そういえば、その話を打ち明けられたのも、あの二丁目のカフェだったけ。
「祖母がね、グリーンランドのクソド田舎に住んでいるの、たったひとりで」
「え、じゃあ、あんたクォーターってこと? その顔面で?」
「うるせえわよ! ってか祖母は日本人よ。色々あって、
今はグリーンランドに住んでいるってだけ。それで、その祖母がこの間、脳梗塞で運ばれたのよ」
「うそ、大丈夫なの?」
「一命はとりとめたけど、少し麻痺が残ってるみたいで……でね、私、祖母のそばに付いててあげようと思うの」
「……グリーンランドに住むってこと?」
「……やっぱり無茶って思う? でも祖母は一人だし、親族で英語が喋れるのは私しかいなくって」
「そっか……」
「だから、もうじき私、いなくなるわ。それまでよろしくね」
「うん……寂しくなるね」
「本当よ……こんな時になって、初めて私にはちゃんとした友達があんたしかいなかったんだってわかった。あんたもどうせそうよね?」
「たぶん……うん、そう。だから、なんて言っていいかわかんない。応援したいけど、行って欲しくないし」
「ありがとう、うれしい……でも、行くから。あんたはあんたで、ちゃんと友達作りなさいよ。いつまでも泰造さんと二人っきりじゃ、そのうち疲れちゃうわよ」
 泣きそうな顔で微笑んで、あんたはアイスティーのストローに口を付けた。もう中身が残っていなくて、ズズズズという汚い音が店内に響いた。
 それからの日々は、穏やかに過ぎて行った。出発までの日々を惜しむみたいにずっと一緒にいたよね。急に沖縄旅行したり、興味ない歌舞伎見に行ったり、夜な夜な公園でビールを飲んでシーソー漕いだり、海外ドラマを一気見したり、登山してみたり。楽しかったけれど、同時につらかった。ひとつやり遂げるたびに終わりが近づいてくるのが如実にわかったから。
 あんたがグリーンランドに発つ日は、すごく晴れていたのを覚えてる。太陽が肌に突き刺さるみたいで、ちょっと痛かった。
 羽田空港のタリーズが、あんたとの最後のガールズトークの会場だった。もう会えないわけじゃない。そんなのわかってるけど、俺は悲しくてたまらなかった。それを顔に出さないように出さないようにと頑張っていたけど、でもあんたは、俺がすぐにでも泣き出しそうなこと、きっとお見通しだったんじゃないかな。
 グリーンランドの片田舎には、携帯の電波が届かないということをその時に教えてもらった。Wi-Fiなんてもちろんなくて、文明の利器でつながることが難しいのだと。手紙書くから、日本に戻ってきたら絶対教えてね、頑張って。そう言って別れた。

 あの時、もっと他に、あんたにかけるべき言葉があったと思う。でも俺は、いまだにそれがわからない。
 ねえカズヤ、あんた、ひとりで寂しくない? 俺は、あんたがいなくてすごく寂しいよ。まるで、自分の身体が半分消えたみたいに。

   〇

 泰造との関係は三年間続いた。カズヤがグリーンランドに行ってからは、カズヤが言っていた通り、俺の世界には泰造しかいなくなってしまった。他の友達も作ろうと頑張ってみたけれど、カズヤの代わりなんていなかったし、たぶん俺もそれを望んでいなかったんだと思う。
 泰造はパーフェクトな彼氏だった。きっと誰が見てもそう言うと思う。愛を伝えることを忘れず、いつの日も誠実。嘘をつかない人というものに、俺は初めて出会って、俺もそうなりたくて、泰造の前では自分を偽らなかった。
 様子がおかしいなと思い始めたのは、泰造との三回目の冬。デートをした帰り、いつもなら俺の家に泊まりに来るのに、その日は帰ると言われた。やんわりと、俺が泰造の家に泊まるのはどうかと提案したりもしたけれど、それも拒否された。
 会ってるときは、変わらず優しかった。でも、どこか嘘のにおいがした。
「ねえ、なんか怒ってる?」
「なんで? 和也なんか悪いことしたの?」
「ううん、違うけど、なんか最近の泰造、変だから。俺がなんかしちゃったのかなって思って」
「和也は全然、悪いところ一つもないよ」
 その言葉は本当だと思った。
 和也は俺の手の甲に手を重ねて撫でた。それから、俺の頬に軽くキスをした。残念ながら、その行為は嘘っぽかった。
 終わりは突然やってきた。クリスマスイブを箱根の旅館で過ごすことにしていたのだけれど、一週間前になって急にキャンセルしたいと電話で言われた。仕事かとたずねても、いや違うんだけど……と曖昧な返事しかしてこないので、耐えきれなくて、直接会って話したいと申し出た。でも、それもなんだかんだとはぐらかされてしまったので、泰造の家にアポなしで向かった。
 この日のこともよく覚えてる。空は曇っていて、雪が降りそうな空気だった。マフラーをぐるぐる巻いていったら、乾燥して剥がれた唇の皮がひかかって、ひどく痛かった。今日泰造にフラれるかもしれない。そう思うと、すぐに泣いてしまいそうだった。
 泰造のマンションはオートロックではないので、そのまま侵入して部屋の前で待ち伏せする。耐久戦を覚悟してホットの缶コーヒーを持ってきたのだけど、泰造はすぐに帰ってきた。
「和也……」
「いるんじゃん。会えないって言ってたくせに」
 攻める言葉が自動的に出てきて驚く。だめだ、攻めてもいいことない。こんなこと言いたいんじゃない。
「ごめん……」
「なんで嘘つくの? 最近変だよ、もう俺のこと嫌になった? クリスマスだってキャンセルするし」
「嫌になんてなってない、でも……」
「でも? でも、なに? いや、いいや。中で話そ。早く鍵あけて」
 言い切ってから、自分がひどく興奮していることに気づく。自分の感情の速度に自分がついていけなくて、パニックになっている。
 泰造は、鍵を開けるそぶりも見せないで、そのまま立ち尽くしている。
「……もう別れよう。和也のこと、好きじゃなくなった」
「……なんで」
「……他に好きな子ができたんだ。だからもう、和也とは付き合えない。ごめん」
「クソじゃん」
 それだけ言って、持ってた缶コーヒーを思いきり泰造に投げつけた。でもコントロールが悪くて缶は泰造の股をすり抜け、転がっていった。
「ごめん、ごめん和也っ」
「もういいから。さよなら」
 二度と顔も見たくなかった。でもこれが最後なら、本当はもう愛されてなくてもいいから抱きしめて欲しかった。相反する気持ちがぐちゃぐちゃとない混ぜになって、息が苦しい。
 振り返って、そのまま歩き出す。引き留めもしない泰造に、ああ、本当にもう俺のことを好きじゃないんだと実感した。幕は降りたんだ。
 泰造のマンションからの帰り道、涙は出なかった。誰かに、苦しみや悲しみ、そういったものとはまた違うこのどうしようもない感情や熱を聞いて欲しかった。でももう、カズヤはここにいない。もう俺は、タツヤじゃない。最寄り駅のSEYUに立ち寄り、総菜売り場に並んでいる鳥の唐揚げを全部買い占めた。たぶん、五〇個は越えてる。両手に袋いっぱいの唐揚げを持って家に帰ると、コートも脱がず電気もつけず、床に座ってそのまま唐揚げを手掴みで早食いする。油が酸化していて衣もふにゃふにゃでおいしくない。それでも、どんどん胃に唐揚げをぶち込んでいく。一個食べるごとに、泰造との思い出を一つずつ握り潰しているような気分だった。泰造と行った場所、一緒にやったこと、話したたくさんのこと。泰造の大好物が唐揚げだったこと。
「あーもう無理」
 自然と漏れたその言葉を合図に、俺はスパーの袋を口に当てた。吐いてクール宅急便で泰造に送り付けてやる。
 と、急に、悲劇のヒロインを必死に演じている自分に、気持ちが冷めていくのが分かった。カズヤの真似をしたって、何もならない。悲しみは変わらない。何してんだろう、バカバカしい。
 そもそも、泰造は本当に最低だったのかな。急に俺への興味を失った泰造は、それでも、浮気なんてできる人間だっただろうか。
 唐揚げでお腹がいっぱいだったことも忘れて、俺はすぐに油まみれな手でスマホを掴んだ。グーグルの検索欄にとりあえずあの言葉を打ち込んだ。
『ノンケウイルス』
 それは、ここ最近話題になっている新種の細菌だった。ゲイがノンケになるウイルス。この嘘のような本当の話は、もう日本では都市伝説ではなくなっていた。でも、俺自身は、例えば誰かがノンケウイルスにかかってしまった話とか、そういうものを聞いたことはなかった。ちょうど、一昔前のHIVみたいな感じだと思う。いるんだろうけど、知らない。
 泰造は、ノンケウイルスに感染してしまったんじゃないか。その可能性にたどり着くのに、時間はかからなかった。検索結果に上がってきた体験談やエピソードを読んでいると、どんどんと確信に変わっていく。俺と同じような立場になった人や、その逆で、きっかけは何もないのに急速に男性への性的興味が薄れ、同性パートナーを愛せず、そんな自分の変化を受け入れることもできなくて罪悪感に苦しむ人の話がたくさんあった。
 泰造が、俺を捨てて他の男に行くというのは、現実味がない。でも、ノンケウイルスのせいで俺に対する好意が消え、それを受け入れさせるために泰造が一人でひどい男を演じているというのならば、それは納得感があった。ただ単に俺が、自分が捨てられたのを認めたくないからかもしれないけれど、三日経って、一週間経っても、その感覚は変わらなかった。泰造は、そういうことをする男だったから。
「ノンケウイルスにかかっちゃったの?」
 泰造にそうメッセージを送るのは簡単なことだった。でも、できなかった。泰造は最後まで俺を守ろうとしてくれたのだから、俺はその気持ちを受取ろうと思った。
 ノンケになっても元気で、誰かを愛してね、泰造。幸せを願っているよ。

   ○

 ねえカズヤ、あんたは無事? まだ、ノンケウイルスには感染してないよね? だって、あんたがいるそこはグリーンランドのクソド田舎で、電波も何も届かない原始的な場所なんでしょ? きっと、ノンケウイルスもそこまではまだたどり着いていないでしょ?
 俺も今のところは大丈夫。いつまで持つかはわからないけれど、今のところは。
 泰造とさよならしてから、ノンケウイルスは急に拡大していったんだよ。それは、日本以外の国でも一緒。あんたの耳にも届いてる?
 泰造と別れてから、二丁目のあのカフェに行く度に、他の客の世間話にノンケウイルスが登場する頻度は上がっていった。そして、段々と二丁目の活気が失われていくのも感じた。SNSを眺めていてもわかる。みんな、いつの間にかノンケになってしまう現象に怯えていた。でも、次第に空気は変わり始めた。自分から進んで、ノンケウイルスにかかろうとするゲイが増え始めたの。だって、うちらは今までずっとマイノリティだった。マジョリティになるこんなチャンスは、言われてみればなかった。しかも、ゲイでいればいるほどに、生活が窮屈になることは目に見えてる。
 ノンケウイルスにかかれば、泰造ともまた、本当に純粋な、男同士の友達になれるかなとも正直考えた。でも、それって俺が望むことなのかな。俺と泰造の、あったかもしれない未来は、そこじゃなかったはず。
 それよりなにより、カズヤ、俺はやっぱりあんたを残してあっち側には行けない。あんたとノンケ同士の友情を育むのもまっぴらごめん。あんたと俺はずっと、カズヤとタツヤでしょ。
 それからの行動は、自分でも驚くほど早かった。すぐに仕事を辞める手続きを始めて、有休を使いながら、グーグルアースやweb検索を駆使して避難場所を探した。東京から遠く離れたある島を見つけて、賃貸を解約し、必要最低限のものを持って旅に出た。
 ノンケウイルスは目に見えないし、感染の自覚症状もない。その恐怖と戦いながら、人混みを避けて移動した。何にも悪いことしていないのに、なぜこんな指名手配犯のような生活をしなくてはいけないのかと泣きたくなる日もあったけれど、その度にあんたを想った。カズヤも絶対、ノンケウイルスと闘うことを選んでいるはず。確信があった。
 それからは、運がよかったとしか言いようがない。島に着いたはいいけど、その後どうすればいいのかと途方に暮れていたら、漁師の英雄さんに拾われた。身元をちゃんと証明できることを必死に伝えて、この島で住む場所を探していることを話すと、芳江さんを紹介してもらった。芳江さんの家は、古くからこの島を治めてきた大地主の家系だった。芳江さんは、彼女の日々の生活で発生する困りごとを俺が手伝うことを条件に、俺に家と職を与えてくれた。足を向けて寝れないって、本当にこのこと。芳江さんが望むなら、俺は芳江さんの介護と看取りもかって出る。
 そうやってこの一年半、ノンケウイルスからはかなり距離を取って生きてきた。でも、最近わからない。ゲイである自分を守るために、こんなに必死こいてここまで来たけれど、この島にいる自分は、俺が大切にしてきた「ゲイである自分」なのかな。ここはまるで、鏡のない部屋。ゲイとしての話し相手も、関りも合いも何もない。ゲイである自分を投影する対象がない。
 きっと、俺はまだゲイ。ゆらゆら揺れるそのアイデンティティに、必死に掴まりながら日々を生きてる。

   〇

 お盆も過ぎ九月になると、日が短くなってきた。夜の気温も低くなってきている。芳江さんの畑は、間もなく閑散期に入る。
 夏至を過ぎたころ、芳江さんは一度倒れた。ちょうど俺が、茹ですぎてあまった枝豆を芳江さんにあげようと思って、夜にたずねて発見することができた。島にたった一人の医者の玄さんをすぐに呼んで診てもらったところ、重い病気ではなく、過労による自律神経の乱れが原因だった。
 また同じことが起きたら嫌なので、お子さんに電話で伝えるように提案したけれど、なぜか芳江さんはかたくなに拒否した。
 それから俺は、なるべく毎晩、芳江さんと一緒に夕食を食べて、芳江さんが寝るまで一緒に過ごすことにした。芳江さんは一度倒れたくらいじゃ弱ったりしなくて、おばあさん扱いしないでと愚痴ってたけど、なんだかんだで嬉しそうに見える。
 今日はガソリンスタンドが休み。芳江さんがピクニックに誘ってくれたので、一緒にお弁当を作って向かうことにした。英雄さんに軽トラを借りて、助手席に芳江さんを乗せる。
「うげ、この車、カーナビ付いてないの?」
「そんなものいらないわよ。ほら、あそこに灯台が見えるでしょう。あのふもとが広場になってるから。灯台だけ見て走ればいいのよ」
「オッケー。じゃあ、安全運転でいきます」
 田舎道を抜けると、すぐに海沿いの道路に出る。さっきまでは先っぽしか見えていなかった白い灯台の全体が明らかになる。江の島みたい。
 運転席側に広がる海は、生デニムのような藍色。昔の映画のオープニングみたいなに、波が力強く押し寄せてきて、気を抜くと目が離せなくなる。
「あ、そういえば、そうそう」
 芳江さんが、ちょっとわざとらしく明るい声をあげる。
「なに?」
「今日ね、トマト持ってきたんだった。今年最後のトマト、生き残りね」
「やった。貴重じゃん、大事に食べなくっちゃ」
「そうねぇ……あのね、ねえたっちゃん、あなた、なんでたっちゃんなの? ずっと気になっていたんだけど、名前は和也くんでしょう?」
「それは、苗字が立花だから……」
「あ、なるほどね。なるほど……ふふふ、やだ、私ったら、全然そんなの思い当たらなかったわ」
「えー、じゃあなんでたっちゃんだと思ってたの?」
「よく考えなかったわね。英雄さんがたっちゃんて呼んでいたから、それに習っただけだもの」
「そっか」
 軽く返事をしたけれど、島に来た当初、英雄さんと芳江さんは俺を犯罪者か何かと疑っていたのを、俺は知ってる。そりゃ当然だ、俺だって疑う。それでも芳江さんや島の人たちは、俺の過去に触れてこないし、探っても来ない。
「前に、たっちゃんがトマトに似てるって言ったの、覚えている?」
「えーやめてよ、あの日は本当、顔むくんでたから」
「違うのよ、顔が丸いとかそういう意味じゃなかったのよ。トマトって、実ってる時は毛が生えてるじゃない?」
「あー、うん。俺も、ここに来て初めて知った」
「お店に並ぶ時は、全部磨かれてなくなっているものね。トマトの毛はね、自分を守るためにあるのよ。湿度や、紫外線から自分を守るの。おいしいトマトになるために。たっちゃんみたいよ」
「……俺、そんなに壁を作ってみえる?」
「違うのよ、そんなことない。たっちゃんは、自分のために自分を守っているのよね」
「……ジコチューじゃん」
「みんなそうあるべきって思うわ、私。だから、たっちゃんはトマトのままでいいのよ。たっちゃんが、何から自分を守っていたって、そんなの関係なく、私や島のみんなはたっちゃんが好きよ」
 たっちゃんが好きよ。芳江さんの口から軽やかに放たれた言葉に、喉の奥がぎゅっとしまる。タツヤのことを、芳江さんは知らない。そんなのわかってるけど、それでもどうしようもなく救われた気持ちになるのを許して欲しい。
「うん……ありがとう。俺も、ここのみんなが大好き」
「そう? よかった」
 芳江さんは満足そうに笑うと、頭をヘッドレストに預けた。窓から差す陽の光を吸い込むみたいに、ゆっくり目をつむった。白い灯台が近付いてくる。

 灯台の下は小さな広場になっていて、ちょっと伸びた芝生が青々と茂っていた。そこにシートを敷いて、芳江さんとお弁当を食べた。芳江さんの今年最後のトマトをデザート代わりにありがたくいただいていると、芳江さんは、ちょっと失礼するわね、たっちゃんしかいないしいいわよね、とその場に横になってお昼寝し始めた。軽トラにあった(たぶん英雄さんの)雨傘を取ってきて、芳江さんの顔に影を作るように置き、石で固定してあげる。
 芳江さんが寝てしまうと、波と風の音しか聞こえなくなった。塩のせいで葉っぱがなくなった白樺の木が、灯台を囲みながら、青空に手を伸ばしていた。灯台は、遠くから見ると真っ白だったのに、近くで見ると思いのほか錆びついていて汚い。入り口に近寄り、小さなドアに手をかける。え、開いてるんだけど。
 中に入ると、当たり前だけど薄暗い。埃っぽい臭いに顔をしかめながら、中央にある驚くほど幅が狭くて驚くほど急勾配な階段を登る。ここ、いつも誰も入らないのかな? てゆーかこの灯台が光ってるところ見たことないけど、もう使われてないのかな。
 想像よりもキツくて途中で後悔しつつも、息を切らしてなんとか上まで登る。踊り場に続く小さなドアを押してみると、全然動かない。鍵がしまってるのかもと絶望しつつ、力を込めて乱暴に押すと、急に光が溢れ出した。よっこらしょとつい唱えながら、踊り場に上がる。海と空。吹きさらす凶暴な風。自分が世界の中心であるとわかってるみたいに、輝きに満ちた太陽。泣けちゃうほど懐かしい、この感覚はなんだろう。
 ねえ、カズヤ。あんたも、たまには俺のことを思い出したりしてる? あんたがいなくなって、泰造もあっち側に行ってしまって、ずっと寂しかった。これからもずっと寂しいかもしれない。でも、まだ頑張れると思う。
 芳江さんのトマトを思う。小さな真っ赤なトマト。自分の価値を守るために、毛を生やし、精一杯生きるトマト。俺もそうありたい。
 灯台の上から見る海は、水平線がわずかに弧を描いている。ここは地球なのだと知る。この辺鄙な島と、グリーンランドのクソど田舎は確かにつながっているのだと知る。本当は、食べたトマトを一生懸命吐き出して海に流したい気分だったけど、きっとグリーンランドに届く前に魚の餌になってしまう。だから、まだ俺は戦う。ねえカズヤ。もしも、全部が終わって、俺もあんたも無事におかまでいられたなら、この島を終の住処にしようよ。ばばあ二人で、おいしいトマトを育てましょうよ。

 ――私、トマトよりナスやズッキーニがいいわ? 長くて太いものは正義よ。

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