「コミュニティ」の「共同幻想」

(ここで「共同幻想」と使っているが、吉本隆明のことばを借りてはいるが、ウィキペディアの説明レベルでつかっている。)

「コミュニティ」とはなにか?大学の研究レベルから、研究、実践でずっと「コミュニティ」界隈にいる自分にとっては、いろいろな場面でいろいろなところでつかわれる「コミュニティ」や「地域」は、普通にはスッと流されてしまうレベルの会話でもひっかかってしまう。
 昨日もとあるところで「コミュニティ」ということばが頻繁にでてきて、かつ、スルーされるように参加者のあいだで使われていた。特に自分的にひかかったのが「コミュニティがある」ということばだった。ソトから入ってきた人間がいろいろな場面でこのことばを使われる。
 以前は、これもパターナリズムだなと思っていたがどうもパターナリズムでは解けなくなってきていて、なんかピッタリくる説明理解言葉がないかと思いついたのが「共同幻想」である。つまり、「コミュニティがあることが「いい」ではない」(パターナリズム)、「コミュニティはあるもの」というみんなが抱く幻想=共同幻想。特に、まちづくりや移住、ローカルビジネスをやっている人たちにスッと使われると「え?」ってなる。いまだに、都市にはコミュニティはなく地方にはあるとかいいう方まで居て、うーんと思う。ちなみに、私は(日本の)家族、以外の人が複数住んでおられるところにはコミュニティはあると思っていますよ、念のため。

コミュニティの「いま」 吉原直樹https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/20/1/20_1_52/_pdf
たとえば、この小論。定住化を否定しつつ、イデオロギーとの関係で歯切れの悪いことばで終わっている。つまり、現実としてコミュニティはなくなっているし、災害などで仮設的にできた(これもそろそろ議論としてはブラッシュアップが必要だと思うが)「community」はこうして、崩壊していく。移動の自由ということばがあるが実はこの歴史的な「移動の自由」が保障されているかどうかというLIFE要素としての研究はあまりない。つまり、ここにはブラックボックスが存在する。人はなぜ引っ越すのか?人はなぜその地に住むのか?という研究である。消費行動としての研究はあるがそれ以外の視点からはあまりみない。そして住んだ人たちはなぜ、「コミュニティ」行動をとるのか、である。そう、それは共同幻想かもしれないのだ。
 だから、私は、東洋的な風土(水土)に基づいたコミュニティ行動が必要なくなっていっている地域を勝手に私は都会と呼んでいるのだけれど。


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