「当事者とはだれか」という問い

 この9月に発売になった「福祉労働168号」に依頼されて投稿した私の文章がある。実はまた雑誌の論文執筆の依頼がきている。
 大学院に進学することを決めたときに書くこと、発表することから逃れられないこと、を選んだと覚悟を決めた。研究職はそういうものだと大学のときに自分の進路を決めるときに幾人もの先生たちからそう言われた。書いてなんぼ、学会で発表してなんぼ、だと。(あ、先生たちは大阪弁ではないけど)23才から33才までの10年間まがりなりにも研究者活動にトライしていた時期、それなりに書いた、発表もした。失敗したし、汗顔の至りである。

 10代のときの私の将来の夢は小説家だった。小説家になりたかった。下手くそな小説を原稿用紙に書いて、雑誌の投稿をしたこともある。有名になった小説家のそんなエピソードを読んでは、同じように原稿用紙に向かい、小説を書こうとして、雑誌に投稿したこともある。

 いつの頃からか、そういった「評価を受ける場」へ自分の書いたものを投稿したり掲載されることについて、苦手意識がでるようになった。書くことがキライになったわけではなく、論文やエッセイのようなものを依頼されて書くことについてである。自分からそういったものにエントリーすることもなくなった。正直に言えば、一点は私は人に評価されるのが怖い。自分のために何かすることがとても苦手だ。いまの言葉でいえばセルフ・ブランディングすることについて興味が薄い。もう一点は、書くことについて、身を削るような思いをすることがある。依頼されるということは、その時点で枠にはめられている。その枠に自分をはめ込み、自分から絞り出すことばをその枠との調整の中で削り取っていく作業になる。そのことに疲れ果てる。だから、書くことについてに苦手意識が高まり、依頼されても書かなくなっていた。

そういった依頼されて書く文章と、BLOGやこのnoteのように、自分が書きたいものを書くことはまた違う。伝えたいことはあるし、時々書いているときは、インパクトを狙う書き方をしていたが、こうして、続けて書いていると承認欲求からもどんどんと離れていっていて、書くことが習慣化していく。どこか、人に読んでもらうことを前提にしながらも、自由だ。この自由さが大切だと思うようになってきた。

 今年の動きの中で執筆依頼も受けている。セルフ・ブランディングではなく「自分たち」のブランディングに高次化するためだという相方の助言に添いながら。

 そんな中、今年一番引っかかっているのが「当事者」なるワードだ。そんな中こんな文章に出会った。

あなたが書けたかもしれない紙面を奪ってまで/マサキチトセ

ブラック・ライヴズ・マター特集の【この特集に足りないもの】というエッセイだ。作者のtwitterの紹介によると

BLMについてではなく、本誌の執筆依頼を一度断った理由と編集者とのやり取り、葛藤のプロセスを書き出した異色なエッセイです。

とのこと。このエッセイの中には以下のように書かれている

 私は黒人差別の当事者ではない。警察による暴力に怯えながらの生活を強いられてもいない。
-こういったことは当事者が語るべきではないのか。
-いや、当事者に語りを強要することだって差別的なことだ
-むしろ当事者でないからこそ、声を上げるリスクが低いのだから語るべきではないか。
 ぐるぐると考えた。当事者性の問題は黒人差別に限らず差別問題につきものだ。たいていは極端に当事者にも非当事者にも限定することなく、主に当事者の声に重きを置きつつ非当事者の声も切り捨てはしない、という当たりに落ち着く。

 作者がこのエッセイで書きたかったことは原文を読んでいただきたいが、私はこの文章を読んで、この現代思想のBLM特集にこの文章があってよかったと思ったと同時に、この文章にむずむずしたものを感じた。
 先に触れたように今年依頼されて「書くこと」を再開したものとして、本来、そこは自分が与えられる場所なのか?という問いを再び自分に浴びせかけるものだった。と、同時に、彼がいう

当事者とはだれだ?

 じつは、最近、この「当事者とはだれだ?」という問いかけをすることそのものに限界を感じ始めていた矢先だった。すでに私たちの社会の中には、「当事者」という概念が構築(構成)されていて、それを本来、社会科学的に既定されたと(言われている)「当事者」とは乖離しているように感じている。だれもが当事者であるということは、だれもが非当事者であるという哲学的なループに入り込んでいるようにもみえる。つまりは、私は「当事者」であると言うことにより私たちは当事者になることができるということに落ち着く。そしてそのことは【自分たちを当事者ということができない差別される人たちを生む】構造になっている。
 こういうわかりにくさは知的作業として楽しい作業であり現場実践者としては、極めてモチベーションの上がる気づきである。
 そうして、私は「草莽の社会学者」を時に自分を誉めてやることばとしてアイデンティティを確認しながら、今日も暮らしていく。



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