「やってる感」ってなに???

ここのところニュース記事などに盛んに「やってる感」ということばが踊っている。安倍首相がやめるという頃から何回も目にするようになったから最近かと思ってネットで検索すると小池都知事に関する記事でも出てくるし、コロナ禍になってからかと思ったらどうもその前から使われているようだ。が「やっている感」ではなくなんで「やってる感」と「い」がないのか、とかどうもよくよく調べてみないとわからない。なにより、この話し言葉の「○○感」ってというのが、こうして、活字のトップにのぼることにもなんだかなぁという感じもするし、何より「やってる感」っていうのが「やっているフリ」というのと同義なのか、どうかわからない。
 「やってる感」がなんとなく醸し出す雰囲気のようなもので、政治的に中味がなかったという批評にばかり使われているが、日常的に「やってる感」がその意味では通用しにくい社会現実が進んでいるようにも思う。
 昔、いまもそういうところがあるのかわからないが、成果主義の外国の会社に比べて、日本の会社は時間だけ勤務していればよく、ただ、さぼっていないように「やってるフリ」を上手にしておけばよいなどと言われた。バブル期の話なのかもしれない。いっぽうで「24時間戦えますか」とか言っていたのでいったいあれはなんだったの?と時代論でいえば突っ込みどころがあったりする。
 SNSなどで日常的に「やってる感」だしとく、みたいなつぶやきは、やらないといけないというプレッシャーからの自己解放のように見える。「足下からできることを1つずつ」というのと同義なのかなと思う。そんなにプレシャーを感じなくてもと思うが、どうも彼らは主体的に何かをしないといけないと自分で「やってる感」を出しているようにも見える。
  なんとなく、一時代前のいい方でいえば、「自己中心で自分のことしか考えてない」感じがある。いまは「セルフ」というアメリカ生まれの日本育ちのことばがあるのでそこにもカテゴライズできるのかなと思ってもいる。彼らは何に苦しんでいるのだろうか。自分で自分にプレッシャーをかけるように「人をまきこむ」もしくは「人と共感」したいのだろうか。
 冒頭の政治的な「やってる感」が主体的なのか客体的なのかはよくわからない。主体的でもあり、客体的でもあるといえるのかもしれないが。いまの日本の得意のふわっとした感じにマッチしているのだろう。いっぽうで、日常生活の中に浸透している「やってる感」は危険だ。劇場化した日本の日常社会の中でより液状化をすすめていくような気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?