わかりあえなさをわかる

 ことば/言葉に対して、こだわって生きてきた、と思う。小さいときに腎臓病を患いながい病院生活、療養生活を強いられ、運動制限と食事制限に人生を規定された自分としては、ことば/言葉を武器にしないと生きていけないと大人たちにある種の脅迫を受けた。
 それが、最終的に生きていくための職業選択の話を予言しての話だったとしても幼い自分によっては大人たちが言う本を読み、ことば/言葉を覚えることに「褒められる」ということが、そのことにきっとつながるだろうことは自然と身についた処世の呪いだった。
 その読み/書くという行為は、大人たちから褒められるという他律行為だったとしても、基本は自律行為であり、自らの世界の内なるの行為にすぎない。つまり、読み/書くという行為は人から【見える】が実際に自分の中での処理は人には【見えない】。仮にそれを【見せる】ことを求められたとき、ほとんどの場合、アウトプットではなくアウトカムを求められる。たとえば、読むことをしていえば、そのままを復唱することが評価されることは少なく、どう解釈したか、どう感じたか、どう思ったか、を評価されることが多い。そして、-いまとなっては悲しいこととわかるが-、どう読むことができたか、ではなく、いかに上手に説明するのか、ということに価値がおかれる。アウトカム術が重要なのだ。
 つまり、そこには【わかる】ということと【わからない】ということを使い分けることによってコミュニケーションを行っていくことに長けていくことができる。時に「わかりやすく」書くことをし、時に「わかりにくく」書くことをすることによって、コミュニケーションを深めていくフリが出来る。もちろん、そこには、自分は「わかっている」が前提にあるわけだ。だから、わかることに価値があり、そのことに執心した。そういう意味で、情報に価値があるという時代の背景にマッチして私は生きてきている。
 ところがこの10年。SNSが拡がり、コミュニケーションのテーゼもテクチャーも変わってくる中で、居心地の悪さを年々感じるようになった。最近になりその居心地の悪さはなんなのかを、少しずつことば/言葉にできるようになった。そうSNSの世界では「話し言葉」と「書き言葉」の【時】が同じになる。そして、SNSは瞬間・瞬間の完結が起こる。なげられることば/言葉はわかってもらうことを前提にしていない。それはことば/言葉に「わかってもらいたい」という感情がのっていても。そこから、わかりあえないことを前提にしたお互いにわかろうとする相互やりとりが成立していかない限りそうならないのだ。
 書きことば/言葉を業にしてきた自分としては、話ことばをそのまま、「公」空間に載せることにいまだに慣れない。しかし、SNS空間は映像に動いて言っている。表現の多様性と同時に、書きことば/言葉とは何か、を改めて自分の中で落とし込めていかないとしんどいなぁと感じる。


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