「起業」ということばのイメージ

 個(人)と社会、正確に言うと英語の”Individual”と"society”は対であり、歴史的に考えて資本主義と親和性が強い。西洋価値の中から生まれてきたものであり明治期まで東洋にその価値感はなかったと言われている。個と社会、国家、市場との関係性は19世紀以降世界の大いなる実験でもあるのだろう。
 大きな話からスタートしてしまった。
 ここのところ、目につく記事に個の「主体性」に類するものが多い。今朝もめについた記事は↓の記事だった。基本的にタイトルに「正体」と書いてある記事は好みではない。なんか、昭和の仮面ライダーみたいっておもってしまう。まぁ、タイトルはともかく、SNSでつながっている人たちが多くひいていたので読んでみた。おそらくこの方の話は以前にも読んだことがある。読み進めていくのだが、最後の一文が目についた

「私たちの一番の目的は起業家を輩出することではありません。あくまで自らの人生を切り拓く力を身に付けてほしい。そんな願いを持って今事業を行っているのです」

「起業」ということばは資本主義市場社会の核と言われることが多い。「ユニコーン企業」をして日本の起業精神のなさをなげき、日本社会の現状を揶揄する。社会起業ということばが非営利の世界でも当たり前になり、その価値感が席巻している。そこにはアンチテーゼを掲げ、課題解決型を指向する。
 「自らの人生を切り拓く力を身に付ける」
ことばだけ切り取れば特に目新しくはない。教育の場では常にいわれる。自らかんがえ、切り拓けと。
しかし、私たちの多くはその機会を与えられていない。
結果として起業ではなく、選んだ結果が起業であるとはなっていない。すべてにおいてそうだ。
環境を整備されぬまま、自己責任を強いられる。それに失敗すれば今度は機会すらも奪われる。
起業するにしてもそうだ。マニュアル化した起業、強いられる起業、そして、自らではない『起業世界』の成功価値感に浸っている。そしてそのコミュニティは外部のものからすれば、気持ちのわるいものでしかない。
 わたしたちのような昭和の人間にしてみれば、「起業」は「商売をはじめる」ことだとおもってきいていたら、あれよあれとと違う意味合いになった。そして、いま、さらに違う意味合いになろうとしているのか、とこの記事を読んでおもった。まさに、業(生業)を起こしていく。そんな意味になっていってほしい。

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