私たちはほんとうに新しいメディアを手に入れているのだろうか?

 「自由なメディアは民主主義の柱である」。先日の香港のことをみるとこのことがよくわかる。アメリカのメディア論をみているとこの10年で既存のマスメディアへのアクセス度も信頼度も著しく低下していることが指摘されている。それは日本でもそうだろう。日本ではどちらかというと、テレビや新聞といった既存のマスメディアの話題は世代間分断の「象徴」のようにも使われていたりする(これはあまり正しくないと個人的に思っている)。
 では、それに変わるメディアとは?と問われればほとんどの人が「ソーシャルメディア」(SNSを含む)とこたえるだろう。しかし、これはほんとうだろうか?また、ソーシャルメディアはほんとうに「自由なメディア」なんだろうか。
 先日、ある方がSNSで「自分の昔の書き込みをみると、とってもマッチョだったことがわかる」というつぶやきをみた。マッチョ???つぶやき主が女性だったこともあり、余計に混乱をした。
「マッチョ」「マウント」などフィーリングではなんとなくわかるが、実際は何を言われているのかな?とわかりにくいことばもならぶ。自由な表現だ。こういった「ポジティブ・ワード」「ネガティブ・ワード」がソーシャルメディアではよく【構築】されている。マスメディアや既存のメディアで「舌鋒鋭い」が評価されることとは対称的だ。
 私も積極的にソーシャルメディアやSNSに参加しているが、特にここ数年、特にSNSの不自由性に気がつくことが多くなった。SNSについてのいろいろな評価や論考もたくさんあるし、単純に「SNS疲れ」といわれるようにSNSそのものが、結局は同じような考え方の人たちの「コミュニティ」しか作り得ないこと、アルゴリズム、「リア充」と言われる作ったSNS像を要求されていること、についてのことはすでにたくさん指摘されている。それはよくわかる。そういうものなのだ、とわかって使っていても、最近はさらにその闇が深くなっているように思う。
 冒頭に書いたように、自由なメディアは民主主義の柱の1つである。その柱の1つを再び私たちは失っているのではないか?という懸念だ。メディアは常に私たちの生活のそばにあるようになった。既存のマスメディアは間接的な影響→情報を得ることによってわたしたちの生活に影響をしてきた。いっぽうで双方向メディアといわれるソーシャルメディアは、私たちの生活の一部をメディアに放出する。それを「発信」と私たちはよんでいる。
 そう、私たちの生活は、自由な発信としてメディアに奪い取られている。それも巧妙にコントロールをされて。そのことを強く意識するようになったのだ。ここ数年の何が影響しているのだろうか?

そのことを分析する力をもっていないのだけど。そんな風に感じている


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