サービスの質を監視する

 「サービスの質」ということばがある。一般に使われることばでもあるだろう。
 「あそこのサービスは低い」「ここのサービスは(質が)よい」などなど。「質」が「よい」「高い」逆に「低い」「悪い」ということばで語られる。つまり、評価されるわけだ。

 品質という「モノ」の評価も類似する言葉になるだろう。いいモノ、悪いモノ。これも評価だ。

 このサービスやモノの評価は、ではだれがするのか?
 何をあたりまえのことをきくのか?と言われるだろう。そう、それは「お客」さんである。必ずしも、モノやサービスのみの質で購入は決まらないということはおいておいて、基本的な構図としては、質が良いので買うわけだし、質が悪ければ買われない。
 モノでなくても、サービスの良い店にはまだ行くだろうし、サービスの悪い店には行かない。

 そうものすごく単純にいえば「市場原理」というものによって、サービスの質の管理はなされるように言われる(つきつめていくと違うともいえるが)。そうして、いま、多くの場面で私たちはサービスの質の管理を「市場」に、または、いやモット、平たく言うと、「選べること」によって担保している。(選べることとは選べないことも含んでいるので念のため)

 ところが私たちの生活の中で、サービスの質を「監視する」必要があるという言説がある。

 きちんと議論しようとすると、とても字数の足らない議論になるが、簡単にいうとその言説は、
「市場のようなものではなくサービスの質を監視する必要があるサービスが存在する」ということと「サービスの質は【監視】されるべきものである」という意味があるようだ。つまり、サービスの管理ではなく、第三者が監視する必要があるということになる。特に、その言説は社会サービスといわれる教育、福祉、医療の分野にいる人たちが使うことが多いように思われる。

 公共サービスの場合、市民の権利性との対峙関係が見えやすいのでサービス(ということばをあえてつかえば)の質に対して「クレーム(異議申し立て/サービス改善の申し出)」が出しやすい。しかし、いまの日本の医療や福祉のシステムの場合に、果たして、サービスの質は監視されるべきものなのだろうか?それは単なる幻想ではないのか。
 医療や福祉のサービスの質がよくなくていいなどと言っているのではない。サービスを監視するとなると、第三者が行うことになるわけだ。その監視はだれのためのなんのための監視なのだろうか。システムそのものを批判せずに、いまあるそこの事象を、第三者的なものを作って監視するという仕組みづくりは、一見良さそうにみえるが、焼け石に水ではないのか?それよりも、それ以前にやることがあるように思うのだが、どうなのだろうか。


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