はるこ
北海道で生まれ育ったとっちゃん。 昭和30年代から50年代くらいまでの 地形、自然、人々の様子などのスケッチです。
とっちゃんは1年生になる時、港の町に引っ越した。 海が目の前!
とっちゃんの赤ちゃん時代から小学校へ行く前まで
主人公は「とっちゃん」 男の子です。 北海道の太平洋沿岸の町で生まれました。 たしかに地図で見るとそうなるのですが、とっちゃんの生まれた家のあたりからはとうに海は見えず、潮騒なんて全然聞こえません。 北海道なら普通の、面積の大きな町(何度も合併もあったし)のことで、海岸べりから切り立った山までが町域でした。 とっちゃんが生まれたのは、東西南北を山(丘)で囲まれていて、穏やかな静かな村です。 とっちゃんの家の南側、2軒くらい行った先に大きな川がありました。北から
北海道は寒いので人も動物も難儀する そんな話題の中で、ネズミの話。 むかしむかしは、羽毛布団などないから、布団の下にわらを厚く敷いて断熱材代わりにしていたら、そこにネズミが巣を作って繁殖していたというのはよくある話だったという。 ネズミが収穫物を食べたり、台所を襲ったりするのは良くある話で そのために、殺鼠剤を使ったら、猫もいなくなってしまったという。 ネズミが食べた殺鼠剤ごと猫も食べ。 猫だけでない、イヌも狐もそのほかの生き物も、ネズミに頼って生きていた
平成6年5月2日の日付の書付がでてきた。 どうやら、小学生?がお年寄り(おばあちゃん)に聞いたものらしい。 おばあちゃんのとなりにはおじいちゃん。 <ここから> 毎年七月の暑いころになると、上級生が鎌をもって、岩関のほうまで砥草を取りに行った。上級と言っても、その頃は、高等科も併合されていたから、その生徒たちのうちの〔川上〕(地名)に住んでいたものが頼まれたのだと思う。わたしらは取りに行った覚えがないから。 そうだなあ、おれらも取りに行った覚えがないなあ。
とっちゃんの小学校は給食がなかった。あ。あったんだけど、牛乳だけだったんだそうだ。 給食とは、牛乳のこと、と思っていたとっちゃんと私の会話はすれちがった。ソフトメンやら、初めての白米給食やらの話は意味不明だったみたいだ。 昭和40年ごろの北海道は、食べるに困らない場所であって、とっちゃんの村でも、明治のころの開拓物語は終わっていた。 終戦後に入植した方にとっては、まだまだ厳しい時代だったとあるので、一概には言えないが。ほんとうに、一概には言えない。自然の厳しい場所は
稚内は雪がない。 最北の町だから雪深いだろうと言われるが、そんなことはない。 海からの風が強すぎて吹き飛ばされてしまう。 そんなわけで、冬になると汽車は止まり、空港は閉鎖になる。 それでも仕事に行く。車がなくては動けなかった。 稚内は樺太に近く、かつては栄えた町だった。 長い防波壁が物語る(タイトル画像)。 今は、港も線路もない。ただ、壁だけが残っている。 正式名称は、「稚内港北防波堤ドーム」だそうだ。 コンクリートの構造物で大変強い。 昭和元年のも
夏が終わると、涼風が吹き始め、山は収穫の季節になる。 とっちゃんは自転車で山の入り口まで行き、駕籠を腰に縛って軍手で山を歩く。熊の危険な季節でもある。フンや痕跡に神経をとがらせる。 白い葉の陰にマタタビが小さな実を結んでいる。 もう、それだけで幸せな気分になる。 この季節に山に入るのは、収穫するためではない、旬を確認するための下見だ。 それでも、早いものは収穫できるし、危険回避のためにも、道具は大事。 収穫できる、といっても、とっちゃんは自分が食べるのが第一
村の家には畑があって、3区画くらいに大まかに区切っていて、手前の方には、いつも食べる菜物などを作っている。トマト、キュウリ、なす。季節には大根やゴボウ、ニンジンなど。 あと、豆は必ず。おたっぁん豆と呼ぶ、おばあちゃんが探してきた豆を作り、毎年次の年の種を確保していた。豆は高くなるので、手(竹のぼっこ)を組み合わせて棚を作る。中に人が入れるくらいの高さで、私も収穫させてもらったことがある。人手があるときは楽しいくらいのことだが、収穫期はいっぺんにできてしまうので、畑専業くら
先生は真っ先に逃げた。 「ちぇ、なんだよ」 と思ったけどしょうがない。クラスは20人、全員の顔を見回し、 「行け」 と言って教室から出した。 泣きそうな康子を引っ張って逃げた。
とっちゃんは中2のとき、突然視力が落ちた。 それまでは見えすぎるくらいだったので、とても戸惑った。 父さんが静内の眼鏡屋さんに連れて行ってくれて、眼鏡を作った。 とてもよく見えるようになった。 でも、メガネはいろいろ不自由だった。 クラブも文系に変った。
お盆に村に帰ると、お客さんがいっぱい来る。 まだ、おばあちゃんが生きていて、思い出話に花が咲く。 おばあちゃんは足が不自由で農作業はできない。おじいちゃんはとっちゃんのおとうさんが8歳の時に亡くなっていたから、村の共同作業には長男のとっちゃんが参加した。『本家のとっちゃん』と呼ばれて、かわいがられた、というが、想像できない。 とっちゃんのおとうさんの下には女の子と男の子がいて、3人兄弟。とっちゃんにはおばさんとおじさんになる。 で、とっちゃんが幼稚園の頃、家にいるよ
ボルチモアに入って港へ行くために川をさかのぼっているときに、コーヒーの香りがした。 とっちゃんが突然話し始めた。 船に乗っていたころの話だ。 ボルチモアには大きなネスレの工場があって、コーヒーの匂いに包まれる。匂いが漂う、とかじゃなくて爆発的な匂いだったと。 今も、ネスカフェを買うと思い出すくらいの印象的な町の匂い。
ひどい雨が降った。 〇〇さんちのじいちゃんが心配で田圃を見に行ってマスに嵌った、幸い、流されずに済んで命からがら戻ったという。 「まったくこんな日は見に行ったらだめなのに」 かあさんは怒気を含んだ声で言った。不幸な結果も知っているから平静ではいられない。 とっちゃんも増水した時の川の怖さを知っている。かあさんには言わないけど、危ないこともあったのだ。 まったく。おとななのになんだよ。 その日、とっちゃんは隣のおばさん(90歳独身)ちへ手伝いに行った。豆の皮むきとかち
北海道の山は美しい。この頃は登山客も増えて整備されたから、よけい美しい場面が多くて素晴らしい。氷河期の生き残りが迎えてくれる、短い夏は、まるで魔法の世界のよう。 ちょっと観光客が入ってるはるこはそう思うし、実際大好きだ。 とっちゃんにとって、夏の山は働く場所だ。厳しさも身に染みている。 北海道の山は、虫がすごい。 晩秋から晩春にかけては寒さも寒く虫さえがんばれないから、夏にすごい(ブヨも関東の倍くらいのが出る)のがすごい量活動する。 そういうわけで、とっちゃん
かあさんが二十歳のころ。村には映画館もなくて。 戦争中は戦意高揚映画が来たけど、終戦後はそれもなくなり。 お盆でみんなが集まると、青年団が劇をしたりしてみんなに見せて楽しんだ。秋は収穫で忙しいけど、夏はそうでもないのだし、若い者とはそうしたもので。 とうさんは歌がうまかったそうだ。 かあさんは音痴だったもんな、とよく言って怒らせてた。 ラジオから流れる流行歌をコピーし、旅劇団の持ち歌を覚えて、劇も完コピしたそうだ。赤城の山も今宵限り。 かあさんは友達3人と組ん
植林する山は、まず木を切る。 下草刈りもするから、しばらくするとちょうどいいくらいの草が生える。 そこを滑って降りる遊び。 ズボンの尻が擦り切れるのはしょうがない。 ただ楽しいから落ちていく。誰ということもなく始まる遊びだ。みんなするする滑る滑る。このスピード、やめられない。 自信ないヤツは端からやらないから、事故もない。 はずだったのに、おちょうしもんがやりすぎた、切り株激突。 わんわん泣くのをおぶって降ろす、病院に連れていく。 どこでどうしたかなんか、
中2の夏休み直前のある日、シンジが 「とっちゃんさぁ、手伝いに来ないか」 と、声をかけてきた。シンジは漁師の息子だ。漁師の息子だが、舟が苦手でできれば陸で手伝いたい組だ。 とっちゃんは二つ返事。 言われた通り、早朝に港へ行く。 シンジと組んで港でウニを採る。 シンジは、トラックのタイヤくらいのチューブの真ん中にカゴを入れたもの(桶)を海に浮かべて潜る。 とっちゃんは駕籠を浮かべる。 10メートルくらい潜ると、底に着く。ウニは2重、3重に沸いている。それをタモに