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未来の法律はどうなるのだろう?『PSYCHO-PASS(サイコパス)』を法哲学から考えて未来の法律を予測する!

こんにちは。今回はPSYCHO-PASSについて、法律とは?という観点で考えてみたいと思います!

まずは、PSYCHO-PASSの物語から軽く見ていきます!

舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。
その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた 。
そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた 。
本作品は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く

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こちらWikipediaからの引用です。

舞台は100年後の日本。この時代の治安はシビュラシステムという圧倒的な存在によって保たれています。

立法権も行政権もありません。ただ、シビュラシステムに頼ればすべて解決するという世界です。私たちの仕事もシビュラシステムが適性を考えて決めてくれるんです、、、!(就活もしなくていいのか!)

ただ、皆さんはシビュラシステムによって作られた法律を守りたいと思いますか?もちろんそんな完璧な法律なら守れると感じる人もいるでしょうし、そうでない人もいると思います。

そこで、今回はこのPSYCHO-PASSに絡めて、法律とは?ということについて考えてみたいと思います!

今回のキーワードは「自然法」と「実定法」です!

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自然法と実定法

聞きなれない単語だと思いますので解説します!

自然法とは、この世には侵してはいけない絶対的な法律がすでに存在するという考え方で、道徳などと近い意味で使われます。

例えば、人を殺してはいけない、だったり、人々は助け合うべきなどが自然法の例に当たると思います。

キリスト教でいうと聖書なんかも自然法に当たります。キリスト教世界の絶対的ルールって感じです。

こう見てみるとやっぱり道徳に近いものがありますよね!

見えない絶対的なものを、みんなが信じることで自然法が法律として機能します。一人だけ信じていても、それはその人にとっての道徳かもしれないけれど、ほかの人に「それを守れ!」とは言えなそうです。

みんなが絶対的な何かを信じることが、自然法の条件ということです!

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今度は実定法です。実定法は人々が作り出した法律のことを言います。憲法とか刑法とか名前のある法律は実定法に当てはまります。

道徳など関係ない、みんなが納得して作った法律であればそれは守られるべきだ!というような考え方です。

もちろん、現在の地球のほぼすべての場所では(自然法ではなく)実定法が使われていますね!!


では問題です。哲学者・ソクラテスの名言に「悪法もまた法なり」というものがあります。これは自然法と実定法、どちらを支持している考え方でしょうか、、、?

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正解は、、

実定法です!悪法であっても、制度の中でみんなで決めた法律であればそれの良い悪いにかかわらず守られるべきであるという考えが実定法主義なので、この言葉は実定法主義を表していると言えそうです!

(しかしソクラテスは実定法主義者ではないので注意してください。今回はわかりやすさのために誤解を引き起こすような説明をしてしまっておりますが、ご了承ください。)

自然法から実定法、そして自然法へ

自然法主義はおもに古代ギリシャ(プラトンとか)で発展し、時が進むにつれ衰退していきました。

逆に実定法主義は主に中世・近代にかけて成長し、現在では大多数を占める考え方です。

なぜ時が進むにつれ自然法が衰退し、実定法が広まったのだと思いますか?


私の思うに、科学が進歩したからだと思います。

科学が進歩すると、神という存在を絶対視する考えが弱まります。科学と神が対立をするとき、ほとんどの場合で最終的に科学が勝利を収めていると思います。(ガリレオの地動説とか、ダ―ヴィンの進化論なんかが有名ですかね!)

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自然法とはつまり目に見えない絶対的なものを信じるという点で、神を信じるのと似たようなものだと思います。なので、過去から現在にかけて、神への信頼が低下したのと同じように自然法への信頼も低下したのだと思います。

しかし、科学技術が発展したPSYCHO-PASSの世界では、また自然法の世界が訪れています。え!どうして!!!!(次に説明します!)

自然法としてのシビュラシステム

先ほどまでで自然法が衰退し、現在では実定法が完全に優勢であるということをお話ししました。

しかしです!PSYCHO-PASSの世界を見てみるとなんとこれが自然法の世界なんです!

PSYCHO-PASS世界の法律はシビュラシステムによって決定されます。人によるものではなく、システムが最良を見極めて決定します。

自然法には何が必要だったかというと、神のような絶対的な存在です。そうでなくては道徳などのように曖昧なものになってしまいます。

では、PSYCHO-PASS世界における神のような絶対的な存在とは何なのでしょうか、、、?

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そうです。「科学」です。

科学が行き着く先は神の領域であると、PSYCHO-PASSでは物語っています。

科学は人間が作ったものですので、つまり科学を神格視するということは人間を神として見ることと同じようなことです。人間が神になる日も近いのかもしれません。


僕たちの多くは科学を間違えないものとして絶対視しているかもしれません。しかし、そんなことはありません。

物理法則(F=mgとか?)はこの世の絶対的な法則なんかではありません。こんなにも複雑な世の中をこんなにもシンプルな数式で表せるはずないんです。物理学者の中にも神の存在を信じている方もいらっしゃるみたいです。(こちらのブログをご紹介しておきます!)きっと、突き詰めれば突き詰めるほど、神の存在なしでは説明できないことも増えてくるのだろうと思います。

科学は人間の考えることなので、間違っていることだってあると思います。ただ、僕たちは科学を信頼しすぎている。科学には、神を否定する力はないと思うのです。もちろん、科学によって否定された神もいます。従来の神ではないかもしれませんが、僕らは科学が正しいと信じるあまり神の可能性をはじめから切り捨ててしまっているのです。

その観点でいうと、科学も宗教の一種だと思うのです。僕らは人間を神とする科学教の信者だと思うのです。

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その象徴が自然法としてのシビュラシステムです。科学を絶対視した世界では、もはや自然法が機能するのです。科学を絶対視する姿勢は、古代ギリシャでギリシャ神話を絶対視する姿勢とさほど変わらないのだと思います。


しかし、いきなり自然法が出てきてもそれにアレルギー反応を起こす人たちもいます。

PSYCHO-PASSの世界でもそんな人がいます。今回は一期の登場人物である槙島省吾と、常守朱の二人を例に出して、自然法へのアレルギー反応を見ていきます。

反自然法としての槙島省吾

槙島2

槙島は徹底して反科学の姿勢を示しています。紙の本を読んでいることがそれを端的に示しています。人を殺すときはカミソリを使います。ほかの場面でも槙島が高度な科学技術が使われたデバイスのようなものを使う場面は出てきません。

槙島は、自身がシビュラシステムに認識されない免罪体質者(シビュラシステムに認識されない体質)であったことで、神として存在するシビュラシステムを疑うのです。

このようなルーツが彼にはあるため、彼は神の、つまりシビュラシステムの正体を暴こうとします。神などいないのだと世間に知らしめようとするのです。

また、彼は、シビュラシステムにすべてを委ね、自分の意思を見失った人間はもはや人間ではないと考えています。失われた人間の意思を、非人道的でテロ的なやり方で取り戻そうとします。

つまり、彼に言わせると、自然法的な見えない何かを絶対的な何かとして信じることは自分の意思を見失うのと同義であり、それは人間らしくない人間であるということを意味する意図があるのだと思います。

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この考え方は僕にも刺さります。スマホやパソコンに生活の多くを委ね、意思ではなく習慣や直観でそれらを操作する僕らは知らないうちにシステムに支配され、意思を失っているのかもしれません。

安全すぎるこの世の中では、強い意思を持つ機会が限られています。槙島はそんな安全な世の中にその意思を開放させるためのツールを誰かに、そして民衆に提供します。そうなるとそのツールを手に入れた彼らはどうなると思いますか?気になる方はぜひPSYCHO-PASSを見てみてください!

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槙島についてまとめると、彼は見えない何かを信じるような自然法を否定し、人間の意思によって作られる実定法を支持する立場だと思われます。シビュラシステムを明確に敵とみている点で次に紹介する常守朱と異なります。


反自然法としての常守朱

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常守朱は、成績優秀な優等生タイプとして描かれるこの物語の主人公です。彼女もシビュラシステムによる絶対的なルールを支持しません。ただ、槙島とは違う方法で。

彼女はテクノロジーが蔓延するこの世界を否定するわけではありません。ただ、槙島をドミネーターで裁けなかったことをきっかけにシビュラシステムを疑い始めます。なので、基本的にはテクノロジーを肯定しているものの、善悪の判断をシビュラシステムに委ねること、つまり法をシビュラシステムに委ねることには拒否します。

常守朱のセリフにこんなものがあります。

法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです。

法律というのは完全無欠のものではありません。だからこそ人間がそれを運用するのです。だから日本には裁判官や弁護士が存在し、シビュラシステムには公安が必要なのです。この彼女のセリフからは人間が法を執行するのだという実定法的な意図が読み取れます。

シビュラシステムは絶対的で神のような存在に見えるけれどそんなことない。完璧でないからこそシビュラシステムは公安の存在を必要とし、人間による正義の執行を求めているのです。

彼女はシビュラシステム自体を否定しているわけではありません。それを受け入れたうえで、どう良くしていこうかということを考えています。槙島とはこの点で考え方が異なります。

その方法というのが、シビュラシステムというものは人間が運用していかなければならないというものです。

だから彼女はシビュラシステムの出した答えを絶対的な正解だとは信じず、それを自分で再検討します。時にはシビュラシステムが出した答えに立ち向かうこともあります。彼女はそれを人間のすべきことだと信じて実行します。

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僕らにもそんな彼女の姿勢に見習うべきところがあるのかもしれません。この世に神のような絶対的な存在がないとするならば、絶対に正しいことなど存在しない。それなら僕たち人間は正しいと思われていることをも人間の頭で、自分の頭で考えなけらばならないとも思うのです。それをしなくなった人間は、槙島に言わせれば「人間ではない」のかもしれません。

槙島と常守朱とシビュラシステム。

シビュラシステムには一つ矛盾があります。システムとは人間が作ったものなはずなのに、シビュラシステムは親である人間を差し置いて「神」として存在するようになります。なぜシステムは人間の手を離れて神として存在するようになってしまったのでしょうか。僕にはわかりません。なので僕は今これを問題提起として「矛盾」と表現しました。

その「矛盾」に正面から立ち向かったのが槙島と常守朱です。槙島はその矛盾を壊してしまおうと、常守朱はその矛盾を人間によって補完しようと考えています。

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そんな彼らにも共通する部分があります。自然法を受け入れなかったことです。自然法を受け入れるということは、それは僕たちは社会をよりよくするために考える必要がないということです。キリスト教下では人間の誕生はアダムとイブであると信じれば、もうどうやって人間が誕生したかなんて考える必要がなくなるのです。

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そんなキリスト教の世界を壊した(それが目的ではなかっただろうが)のが、地動説を唱えたガリレオであり、進化論を唱えたダ―ヴィンです。対してキリスト教を人間によって補完しようとしたのがキリスト教の宗教改革を行ったルターです。

自然法としてキリスト法とシビュラシステムを同一視するならば、差し詰め槙島はガリレオで常守朱がルターです。

しかしキリスト教は形を変えて今日までこの世に存在し続けています。その意味は、結局のところ実定法と自然法とは程度の問題だということなのでしょう。要は実定法と自然法のバランスを取って運用することが重要なのでしょう。そしてそのバランスをとる主体は人間以外にはありえないのです。

自然法を信じすぎず、実定法を向上させ続ける。きっとPSYCHO-PASSの世界でもシビュラシステムは存在し続けるのだと思います。あくまでそれは、人間の作り出した実定法と共存する形で。

程度の問題というのは納得できるような答えではないですよね。しかし、それでもきっと答えは答えなのです。答えはいつもドラマチックに白黒つくものでもないはずです。

まとめ

僕らも盲目的になにかを信じすぎてしまう故に考えることを無意識のうちにやめてしまうこともあるかと思います。その結果、そのシステムに支配されすぎているのかもしれません。

PSYCHO-PASSの結論の一つに、シビュラシステムのようなシステム支配されず人間が自由な意思で悩んで悩んで行動することが素晴らしいのだという考えがあります。これは常守朱というキャラクターを通して表明されます。

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言われすぎていることかもしれませんが、スマホとかSNSとかもそのようなシステムの一種かもしれませんね。人間がシステムを使うのに意思を伴わないときには、人間はシステムを使っているのではなくシステムに支配されていると言ったほうが近いと思います。

答え自体に価値があるのではなく、悩んだ末に意思をもって決断した意思によって導き出された答えにのみ価値があるのでしょう。少なくとも、常守朱のセリフからはこのようなメッセージを受け取れます。

自然法を信じすぎず、実定法を向上させ続ける。絶対的と思われているものを信じすぎず、人間の意思によって「何か」を創り続けるという姿勢が重要なのだと私は思います。

何を創ろうか迷いますよね。僕も迷って迷って答えを求めたくなります。それでも、すっきりすることはないかもしれないけれど、自分の意思によって悩み、決断することこそが重要なのだということを信じます!そんなことを僕はこのPSYCHO-PASSというアニメから学びました。

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この文章を書くのにあたって、もう一度PSYCHO-PASS一期を見直しましたが、やっぱめちゃくちゃ面白いですね。文章にも熱が入ってしまい気が付いたら6000字を超えていました、、、笑

次の題材ももう考えてあります!気になる方は、ぜひご期待ください!

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