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世界平和のために

例えば、私が、時たまに感じる素晴らしい情景を独り占めしても良いのだろうか。それを共に見たくはないだろうか。

私が心の内で、不幸だと思ったとき、私以外の皆は幸せなんだと決めつけてもいいんだろうか。

私を私たらしめる生の煌めきは、あの川ではないだろうか。または、海の中、今も強く生きる魚の群れの一匹ではないだろうか。

私は今日も、飯を食い、誰かが建てた部屋の中で、のほほんと暮らし、将来的には、その魚の一匹を食らってしまうのである。同時に私が外へ出て行き、何かしらの仕事をすれば、きっと誰かに感謝されるのだろう。

この世界で私が強くあればあるほど、私は、加害者になるのだ。もしくは被害者になるのだ。

では、私は弱くあるべきだろうか。今すぐ生を衰退し、死んでしまえば良いのだろうか。

あの素晴らしい情景をひとりで見たままか?

私はどうしたって高潔になりたいのだ。世界が、子どもたちが屈託のない笑顔の中に生きていることを望むのだ。私の幸せは、全く自分ひとりでは完結しなかった。このどうしようもない老婆心みたいなものが働いてしまって、おせっかいしたがるのである。

弱いものは、強くありたいとする。弱いまま、「私は無価値な人間だ」と生きることを諦めてしまっては、駄目なんだ。ましてやそれに尤もらしい理由をつけ、欺瞞したままいなくなってしまうのは、最も不誠実だ。

人々が笑顔を、それは見かけの笑顔ではなく、内側から湧き上がる笑顔をしていなくては、これまで紡いできた先人たちの遺産はどうなる?これから、生きようという人間はどうなる?さらに将来に生きる子どもたちは、希望もなく生きなければならないのか?

もし強く生きようと、溌剌とした世界に、愛の世界に生きるのであれば、私たちは常に罪を犯し続けることになる。そして常に被害を受け続けることになる。そのときに私たちは自分以外の他者と衝突するしかないのだ。れっきとした闘争の中に我々は生き続け、自身の全てを賭けた争いの中で勝負をし、そのスリルの内に、特に拮抗とした闘いの最中に生の充足を感じるのだろう。

私の使命は、最大の闘争への賭けを授けることである。

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