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自分のSNSアカウントは、本当に「自分」なのだろうか?

「見られることが作り出す空虚さ」

最近、ふと疑問が浮かんだ。確かに、私は自分のSNSアカウントで言葉を発し、思いを伝えている。アカウントには私の名前が刻まれ、写真も掲載されている。しかし、その画面の向こう側にいるのは本当に「私」なのだろうか。時折、どこか中身のない空虚さを感じることがある。まるで、自分ではない誰かがそこにいるかのようだ。

最初は、この感覚はないかもしれない。自分らしい自分でSNSを使っているのかもしれない。だが、徐々にフォロワーが増えていくと、「人に見られている」という感覚が強まってくる。この「見られる」という行為は、想像以上に人を変える。そこに本来の自分がしっかりとした芯を持っていなければ、その圧力に耐えられなくなる。また、ある程度ペルソナを持たないと、自分自身の危険にもつながる。好き勝手な発言や行動は、時に自らを破滅へと導くこともある。

つまり、フォロワーが増えていくと、私たちはなるべく「聖人化」していくのである。他人から叩かれないように、人を傷つけないように発言を慎重にする。また、現代社会は、全人類に気配りができなければならないという不可能な期待を課す。村の100人に気を配るのは自然なことかもしれないが、全人類から愛される人物になるには、まさに人類史上の緊急事態といっても過言ではない。しかし、人はその無理難題に応えようとする。それはまるで、スカイツリーの最上階から落とした目薬を、自ら降りて、目に入れようとするようなものだ。

しかし、社会はそれができない者を容赦なく罵倒し、立てなくなるまで叩きのめす。それをさらしものにするかのように、メディアは我々に過剰なまでに親切に知らせてくれる。それを見ているSNS世代は、何度も飛んでは空中分解する宇宙ロケットを見ているようなものだ。自分は「ああはなりたくない」と思うだろう。だからこそ、SNSのアカウントはどんどんペルソナに侵食されていく。

ペルソナがあってこその自分だと主張する者もいるかもしれない。しかし、すべてにおいて「なにごともほどほどに」である。ペルソナに覆い隠されすぎてしまえば、もはやそれは「自分」とは言えないのだ。

SNSのアカウントは本来の自分ではなく、そこに残るのは空虚さだ。SNSの世界では、私たちは理想の自分や他者に見せたい自分を作り上げる。しかし、そこで生まれる反響や評価は瞬間的であり、心の深い部分を満たしてくれるものではない。そのため、SNSで起こった出来事を現実に持ち込みすぎることには注意が必要だ。デジタルの世界が現実に深く侵食し始めていることに、私は強い警鐘を鳴らしたい。

私自身にも言えることだが、現実の世界にあるもの――たとえば、目の前に咲く一輪の花――に心を動かされるその感覚こそが、私たちの生活の中で本当に大切にすべきものではないだろうか。その花が風に揺れる様子、その瞬間の美しさに目を向けることで、私たちは初めて現実とつながり、内なる豊かさを感じることができる。

現代の世界では、情報やSNSのフィードに追われ、私たちの心はますますせわしなくなっている。しかし、静かに咲く花に心を開き、そこに宿る美しさを感じ取る瞬間に、私たちは深い充実感を得ることができる。デジタルの刺激に依存せず、五感を通じて現実の世界を体験し、それを心の糧とすることが、真の幸福への道筋である。

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