見出し画像

ひだまりの丘 9

しかし、私は後輩たちのメンタルのフォローもしなければならなかった。


石井さんはあれから、覇気や自信がなくなった様子で働いているし、田無さんに至っては出勤してこない。


一度、休み希望の電話を私が受けたときに、「迷惑をおかけして、もうしわけありませんでした」とか細い声で謝り、「だけど、私はもう看護師に向いていないかもしれません」と言い残して、電話を切られた。
橘師長に相談すると「逃げたわね…」とため息をつき、「私からも田無さんに電話をしてみるけど、これ以上スタッフが減ったら困るわ。なんとかしてちょうだい」と言われた。また、広澤さんの家族への対応を聞くと、「ひとまず看護部長と今相談中よ」とさらに深いため息をつかれた。
私は、石井さんと田無さんが出勤しないことについて、個室で話をすることにした。
「私は田無さんの口から、広澤さんのご家族に説明して謝るべきだと思います。」
もともと、責任感の強い彼女らしい発言だった。
「だけど、私も電話してみましたけど…、私の言うことは聞きません。体調が悪いとかなんとかいって、とりあえず皆に迷惑をかけるから出勤するように言っても、私は足手まといだからって。それに田無さん…」
石井さんは一瞬言いよどんで、下唇を噛むと一気にこう言った。
「今、心療内科に通っていて適応障害の診断が出そうだから行きませんって言ってました。」
私の中にも衝撃が走った。
「それ、いつ言ってたの?」
「昨日休みの電話があったときに聞いたら言いました。」
「…そう、そこまで思い詰めてたのね」
石井さんの眉間にしわが寄った。
「でも、ズルいって思いません?仮病ですよ。きっと怒られるのが怖くて来ないんですよ。私も、主任さんもこんなに一生懸命指導してきたのに…!」
石井さんは気の強い性格で、できない人のことは努力が足りないと認めようとしないところがあった。だからこそ、橘師長が繊細な田無さんのプリセプターに石井さんを付けると決めたときは一抹の不安もあった。
「医師が診断するのなら、仮病ってことはないでしょう。診断されるのなら、診断書を持ってきてもらわないとね。石井さんもよく頑張ったと思うよ。田無さんのことは、待ちましょう。」
「でも、このまま出勤しないと病院としても雇い続けるというわけにはいかないですよね?!」
「…そこは、診断書を見て、上が判断することね。休職という道もあるし。」
あくまで、事実を冷静述べたつもりだが、共感してくれないことに石井さんは若干の不満が残ったようだった。
石井さんは、残業してでも自身の責任の範囲内の仕事は終わらせるし、教育委員会の仕事も休日出勤をしても熱心に取り組んでいた。新人に対する研修も、積極的に意見をして取り組み、熱心な分他のプリセプターに対し不満を漏らすこともあった。そこまで、注力してきた石井さんの指導が思った通りに行かないことを歯がゆくおもっているのも、見て取れた。
私はというと、自己主張の激しい橘師長と石井さんの間に挟まれ、サンドイッチ状態になりどちらの機嫌も取りつつ、気を使うことに少しずつ疲れを感じていた。
結局、田無さんは診断書を郵送で送り、1か月の休職がほしい旨を手紙に書いていた。
「誰が、こんな入れ知恵をしたのかしらね。しかも直接言わず、郵送だなんて。最近の新人は困ったわ。」
と橘師長は、私にぴらぴらと手紙を見せながら言った。


広澤さんの家族との面談日に田無さんが同席することはなく、看護部長の判断で主治医、橘師長、私が対応していくこととなった。
事前にスタッフで話し合い、あくまで事実を説明していくこと、前から誤嚥はあり肺炎も誤嚥性肺炎であり、こうなるリスクは高かったことを説明して納得してもらう方向性になった。
橘師長が事前に、「言ったことの記録はしっかりと後で看護記録に書いてね」と念を押した。
病棟のスタッフに影響が出ないよう、外来の空いている診察室を借り、そこで面談は始まった。
娘の和子さんは始終涙ぐみ、言葉にならないようで、話をするのは主に夫の方だった。
一通り、包み隠さず説明をしたところで、夫が
「それって、義父が食べるところをしっかり見ていなかった、監督不足ですよね」
と話した。
主治医が、いずれ遅かれ早かれこうなるリスクは常にあったと話すと
「でも、私たちが差し入れたせんべいを義父は食べられてた。あなたがたがしっかり看てたら義父は今も生きていたんじゃないんですか?」
と声を荒げた。広澤さんはせんべいは実際、面会に来た時に少し食べるふりをして、あとでワザと湿気させたり、牛乳につけたりして食べていたのだ。それを家族は知らない。
和子さんは一層高くしゃくりあげて泣いた。
「父は絵が好きで、最後に美術館に連れて行ってあげたかった…」
その気持ちは、私には痛いほどわかった。広澤さんは、手が思うように動かなくなって絵が描けなくなってからは、よく美術の本を病室で読んでいた。たまには、本物を見に行きたいと漏らしていた。
妻の様子を見た夫は
「こちらは、病院の監督不足として訴えようと思っています!」
全員に衝撃が走った。
和子さんも思わず、顔を上げ夫を見つめていた。
「わかりました。しかし、もう一度お話をする機会をいただけませんか?」
主治医は冷静に話をした。
夫は、腕を組み
「いいでしょう。それは何回でも言い訳を聞きましょう」
次回の面談日を決めて、その日は解散となった。

主治医と橘師長と私とで、その面談の振り返りをした。
橘師長は「大変なことになりましたね…。すみません、先生」
と主治医の先生に謝った。
私もつられて申し訳ありませんといった。
主治医はしばらく考えたように黙り、
「元々誤嚥のリスクは高かった方ですし、看護師の皆さんは食事の形態を見直したりよくやってくれていたと思います。あとは、ご家族に納得していただけるよう話し合いを重ねるしかありませんね。」
その男性の主治医は思慮深く、こういった事態でも看護師に当たることなく冷静に対処してくれているようだ。
自身の責任を追及され、怒りながら周りに当たり散らす医師だってたくさんいる。
その中で、主治医が冷静に対応してくれると、周りも落ち着くことができてありがたい。
橘師長の表情も柔らかくなってきた。
「ありがとうございます。このことは、看護部長と院長にも話して、病院として対応していきます。」
「また、方針が決まったら教えてください」
そのベテランの主治医は、穏やかにそう言って業務に戻っていった。
橘師長は、看護部長との話し合いの中で徐々に焦りを隠せなくなっているようだった。
「主任、あなたも部長のところに一緒に来てちょうだい」
病院としては、やはりなんとしてでも訴えられるわけにはいかないと、プレッシャーをかけられた。
私は何度も、部長の前であの日の出来事や、後輩たちのことを説明した。
同時に病棟でもインフルエンザの蔓延はなかなか終息の気配を見せず、変わらず少ないスタッフの中で感染対策を行わなければならないことにスタッフは疲労を重ねていた。
私も、残業は当たり前で少ないスタッフの穴埋めで、休日出勤をすることが増えてきた。
ここ一週間で3kg体重が落ちた。
翌日は2回目の広澤さんの家族との面談の日だった。
仕事終わりに石井さんが声をかけてきた。
個室で話したいと言われ、二人で話をすることになった。
正直、早く帰りたい眠りたいと思うほど疲れていた。
「ごめんね。ゆっくり話を聞きたいところだけど、まだ残務も残っているから10分くらいでいいかな?」
できるだけ、穏やかに声をかけたが、石井さんはムッとしたようだった。
「あれから、田無さんに電話をかけて何度か来るように言ったんですけど、話にならないんです。」
私は驚いて、石井さんに聞き返した。
「あなた、田無さんに今も電話していたの?」
「はい、やっぱり主任さんたち広澤さんのことで大変そうだし、田無さんが一番いけないと思うんで。広澤さんに謝るように言ってるんです。」
適応障害と診断され、休職も受理された相手に、そんな電話を繰り返しているとは。
思いもよらない石井さんの言葉に驚いた。
「田無さんは休職しているでしょう。それに謝るかどうかっていうのは、石井さんが決めることじゃないのよ。電話は今はしないで!」
田無さんのおびえる姿が目に浮かんだ。
どちらかというと、私は田無さんタイプだ。だから、彼女の気持ちもわかる。
つい語気を荒げた私に、石井さんは反感を持ったようだ。
「どうして、私が怒られるんですか?おかしくないですか」
「それは傷ついている後輩に追い打ちをかけるようなことなのよ」
諭したかったが、彼女はますます怒っているようだった。
「じゃあ、私は傷ついてないんですか?広澤さんの家族にだって、田無さんが謝れば訴えられないんじゃないんですか」
「そんな単純なことじゃないのよ」
「意味わかりません。」
彼女は腕を組み、頑とした姿勢を崩さなかった。
「師長さんに相談しても、教育の担当は主任さんだからって言われてろくに聞いてもらえないし、主任さんは私のこと責めるし、もう誰に相談したらいいかわかりません。病棟もありえないくらい忙しいし、人増えないんですか?」
それこそ、橘師長に聞いて…いいかけてやめた。彼女はたらいまわしにされていることに不信感を持っているのだ。
「みんな大変だと思うわ。今は緊急事態だし。師長さんは師長さんのお考えがあるからね」
実際は、橘師長の考えていることはよくわからなかった。人員の増加も積極的に取り組んでくれているのかこちらが聞きたいくらいだ。
はぐらかされたと捉えたらしい石井さんは、「このままが続くと、私も病棟移動届を看護部長に出そうと思います。やってられません。失礼します。」
と、言い残し部屋を出て行った。
元々強くない胃がキリキリと痛んだ。

翌日の広澤さんの面談は、看護部長を含んだ4名になっていた。
今回は看護部長の発案で、家族に了解を得てテープレコーダーを置いての面談になった。
夫も、それならこちらも録らせていただきますとテープレコーダーを置いた。
和子さんはもう泣いていなかった。
前回と同様の事実の説明を繰り返し、今回はせんべいの話もした。
夫は驚いていたようだが、今弁護士と相談いるので、またそちらとも話をしますと言って終了した。
こちらも弁護士に相談しないとね、という看護部長の言葉に橘師長が頭を抱える様子が見えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?