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ひだまりの丘 12

仕事は辞めようと思った。
休みの間、ずっと考えていたことだった。


否、ここ最近そういった思いはあったのだ。
蒼ちゃんのおかげで、自分がどれだけ身体的にも精神的にも限界だったのかもわかった。
照子先生がクリニックを開き、働ける場所を用意してくれた安心感も大きい。
人間関係や居心地の悪さは変わりそうもなく、照子先生までいなくなると同期は有紀子だけになる。有紀子は同じ主任という立場から、今後も同じ病棟で働くことはできないだろう。基本的に1つの病棟に主任は1人だ。
昼夜を問わず働きづめの結果、お金は使う暇もなく溜まっていった。
幸い、マンションの頭金は払ってあることだし、月々の支払もしばらく払っていけるだけの貯金はある。

広澤さんの件だけは、気がかりだった。
途中で放り出すことはできないという思いが、今日も私を病棟へ出勤させる。
しかし、今日はいつも感じる動悸はしなかった。
石井さんも他のスタッフもいつものように、よそよそしかったがあまり気にならなかった。
心の中に蒼ちゃんの陽だまりが残っていた。
いつか辞めると決めたことで、心の余裕が出てきたようだった。

今日は、広澤さんとの何回目か忘れるほど続いた話し合いの日だった。
弁護士を通せば通すほど、返ってお互いの溝は深まるばかりで平行線が続いていた。
数えると、広澤さんの四十九日がちょうど過ぎた頃だった。
広澤さんの家族は、葬儀など忙しかっただろうにこまめに病院へ訪れていた。
話し合いを重ねていたが、渡しそびれていたものに私は気づいた。
それは広澤さんの絵だった。
まだ主任でない頃に、広澤さんはスタッフの似顔絵を描いてくれていた。
私ももらったことがある。
家に大切にしまっていたが、家族にとっては広澤さんの大事な形見のひとつだろうと思った。
なので、持ってきていて今日家族にお返ししようと思っていた。

似顔絵を手に、弁護士と橘師長、主治医と共に今日も面談室に向かった。
広澤さんの側は、和子さんと夫、弁護士だった。
こちらを訴えるという夫の主張は変わらなかった。
いよいよ手続きも済み、こちらを訴える手筈は整ったと言われた。
橘師長はがっかりと肩を落としている。
無理もなかった。
訴えられるという大事にだけはしたくなかったはずだ。
主治医も心なしか覇気がなく、気落ちした様子で娘夫婦を見送った。

私は、黙っている和子さんに似顔絵を渡さねばと駆け寄った。
「和子さん、これお父さんの絵です。渡しそびれていていました。今回のことは本当に…ごめんなさい」
裁判という決定的な場面に移る前に、私はどうしても直接家族に謝りたかった。
謝ってすっきりしたいという気持ちがなくもなかったし、自己満足であることはわかっていた。
橘師長が、何事かという顔でみている気配を感じたが、私はひるまなかった。
似顔絵を手渡すと、今日初めて和子さんと目が合った。
和子さんは、私の似顔絵を広げて私の顔と交互に見た後、
「もう、いいです」とか細い声で言った。
一度もらった似顔絵を突っ返すなんて、返って失礼だっただろうか。
余計なことをしてしまっただろうかーー。

和子さんはキッと夫をみると
「もうやめましょ」
と言った。
私を含め、皆ぽかんとしていたが、和子さんははっきりとこう言った。
「訴えるの、もう辞めます。父はそんなこと望んでいません!」
夫が口をあんぐり開けて、でも、おまえ…とうろたえていた。
「こんなに、今までよくしてもらったのに。嫌いな人を父がこんな風に書くものですか。恩を仇で返すようなことをして、こちらこそごめんなさい。」
和子さんは深々と頭を下げた。
納得のいかない様子の夫をひっぱり、夫妻は帰っていった。広澤さん側の弁護士も、困惑したように2人へついていった。
あまりの展開に私たちは、それをぽかんと眺めてしばらく突っ立っていた。

「思い返したら、訴えるってずっと言ってたのは旦那さんだけでしたね」
静寂を破ったのは、主治医だった。
「和子さん自体は、訴えることに乗り気じゃなかったんじゃないですか」
橘師長が、やれやれという風に言った。
「院長や看護部長に報告しますね」
橘師長が報告のため去ったあと、主治医が私の方を見ていった。
「戸田主任の誠意がちゃんと伝わったんだと思いますよ。」
と、微笑んで去っていった。
私は、じんわりと緊張で冷たくなっていた手先に体温が戻るのを感じた。
同時に、自分は本当に誠意をもって接することができていたのか、疑問に思った。
正直、訴えられるというのは14年間の看護師生活の中で初めての出来事だった。
もしも裁判に負けたらと考えると、怖くてたまらなかった。
その時は、完全に自分のことしか考えていなかった。看護師 戸田 紫ではなく、個人としての戸田 紫になっていた。
毎日、遅くに家に帰ってからスマホの検索で夜中まで検索し、目が冴え熟睡できないまま朝を迎えていた。検索すればするほど、色々な情報が頭を飛び交い、安心を求めているはずなのに不安が増すばかりだった。
今夜は、検索しないで済む。
ただ、そのことにほっとしている自分がいた。
いつか真っ新な気持ちで、広澤さんの墓前に手を合わせられる日は来るのだろうか。
未熟な自分を広澤さんは許してくれるのだろうか。
もう話すことはもうできない広澤さんに、ただひたすら許しを請いたかった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
最期苦しかったでしょう。
目を離してごめんなさい。
助けられなくて、ごめんなさい。
どうか、私を許してください。

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