映画「怪物」 -ユング心理学の視点から



怪物 x ユング (Spoiler Alart:映画の内容が描写されています。)

こんにちは、灘田篤子です。今日は、映画”怪物”について話していきたいと思います。怪物はカンヌ映画祭で脚本賞と共にクイア パルム賞を受賞してるので、プライド月間でもある6月が終わる前にこのエピソードを公開したいと思っていました。

ゲストとこの映画談義を公開しています。https://podcasters.spotify.com/.../episodes/with-NZ-e2l6npm (podcast)

https://youtu.be/CTOKrWq2BiQ (Youtube)
並行してポッドキャストでNoteの内容を読み上げたもの

https://podcasters.spotify.com/.../episodes/ep-e2l6oqc  

是枝監督は、朝日新聞での対談で、映画のタイトルを決める過程について、最後、怪物達、にするか、怪物、にするかしばらくの間チーム内で決めずにおておいた時期があった、とを話しています。
世界大百科事典を見てみました。

怪物 という言葉の使われ方や、この言葉がもつ象徴的な意味は
正体不明の生物や物体,とりわけ醜悪・不快・恐怖などの念を抱かせる存在の総称に用いられる語。一般に怪物と呼ばれるものは想像の産物が多く,いくばくかの事実や伝承を核に,人間の持つさまざまな不安や畏怖(いふ)が投影されて成立した一種のシンボルともいえる、とあります。
日本国語辞典によると、
​​ あやしいもの。正体のわからない不思議なもの。また、特に力の強い大きな化け物。変化(へんげ)。妖怪(ようかい)。
性質や行動が普通の人とは非常に違っていて、正体のつかめない人物。また、才能や力量が普通の人とは違って、とびぬけた実力者。
とあります。

ポジティブにもネガティブにも使われる言葉のようなのですが、
例えば、ポジティブな使い方だと、スポーツ選手やアーティスト、職場で飛び抜けて優秀な人を、あの人は怪物だから、とその人が持っているものや社会に発揮する力の凄さを”怪物”という言葉を使って表すことがありますよね。ネガティブな使い方だと、鬼と福、や浦島太郎、のお話の中に出てくる鬼のような生活を脅かす退治し排除すべきもの、として言葉やイメージが使われています。

この映画では個人の内面、相手との関係において、そして社会や文化全体において存在する怪物的な側面をここかしこにみてとることができます。

その人が持っている ”特異性”、ユニークさとしての怪物性が新しい何かを人の心やコミュニティーに生むこともあれば、
何か恐ろしく現状を破壊しかねない物として、否定したり、避けたり、無視したり、いじめや嘲笑いの対象として扱われます。

その怪物的な何か、との関係を切断しようとする力が、個々人の心の中、そして他者との関係性の中で働く現象として描かれてもいます。

その対象は、見る人、語る人の立場によって意味や解釈が与えられ、いいもの、悪いもの、という2極のはざまでその人をジャッジしようとする人間の習性さえProvokeしている。そもそも、それぞれの人の性質は、沢山のレイヤーが複雑に絡み合っていて、マルバツ、良い悪い、というDycotomyではまとめることができないものなのに。

”怪物性”は自分自身の中で自分の一部として自覚されるものもあれば、周りから”怪物だ”と見なされるものもあります。

映画はある一定期間に起きたことを、それぞれ湊の母親である沙織、湊の小学校の担任の先生の保利、小学校4年性の湊と依里の経験として描かれています。同じ事象を3人それぞれが全く異なるように感じて理解しています。まるで、一人にとってはりんごが疑いもなく赤に見えるのに、もう一人には、緑にしか見えず、もう一人には黄色にしかみえず、しかも違う色をそれぞれ見ている、ということにもお互い気づいていません。

対話がないから、相手の事が得体の知れないモンスターのような恐ろしいもののように感じるし、それぞれの心の奥底で渦巻き意識されていない膨らみ続ける不安や怒りは、まるで自分の中に住んでいる怪物から内側から攻撃されるようにそれぞれの登場人物の心を病ませ、彼らの行動を支配していきます。

ユング心理学では、タブー化されたもの、無意識の層に押しやられたものをシャドウと呼ぶのですが、私たちの言動は、そのシャドウ、言い換えれば 怪物 に気づかないうちにコントロールされている、と言えます。

例えば湊の母親の沙織がもつ怪物性についてみていきたいと思います。
夫が不倫旅行中に交通事故死した、というのは映画の中で彼女の口から語られることはなく、むしろ、素晴らしい社会人ラグビー選手だった、と美化したイメージのみ口にされ、彼女が湊にお父さんに敬意を払うことを促すシーンが何度もあります。(それに湊は少し反発しています。)

沙織がお父さんと湊の将来について約束した  ”湊が将来女性と結婚して幸せな生活を送るまでお母さん頑張って見守るよ” という内容を湊に伝えるシーンがあります。優しさ、子を思う親心というコンテクストで沙織がえ描かれていますが、湊にとっては、自分を完全否定する絶望的なAttitudeのように感じられるものです。

このようにかかれた沙織の子供との関係性の中ではどの様な母親アーキタイプをえ描いているでしょうか? 

「アーキタイプ」とは、心理学用語の一つでユング心理学ではよく出てきますので、ここで少し説明しますね。アーキタイプはユングの理論においては、人間の普遍的な心の構造や行動パターン、シンボル、イメージを表し、文化や時代、個人の経験を超えて普遍的に存在すると考えられています。

沙織が体現しているアーキタイプの一つは、Devouring mother ー 日本語への直訳は「むさぼり飲み込む母親」といえます。程度の幅は様々ですが「子供たちを心理的に「消費」する、ある種の心理的怪物性を指す心理学用語です。例えば、母親的な立場の人の自己認識、アイデンティティーが、妻や母親、保護者という役割・立場のみとなり、子供的な立場の相手を通してでしか自分の存在感、充実感を満たす事ができない心理状態になっていることがあります。一般的にむさぼり飲み込む怪物的な関わりをする立場の人は、相手に対して高圧的だったり、支配的だったり、操作的だったりします。保護しようとしたり、導こうとしている、という意味合いや設定の元、子ども的な立場の人と共依存的な関係性を築いている背筋が凍るような恐ろしい関係性です。

イメージとしては、例えば優しいガーディアン的な肌触りのいい着ぐるみを着た、怖い人喰い花、でしょうか。表面上の優しさに惑わされてよりついていると食われてしまう。

Devouring mother Archetypeを提示するのは、必ずしも生物的に母親と子供出あったり、女性である必要はなく、誰しもが無意識に押しやられた感情や心理的なエネルギーを無意識に行動化している一種の怪物性をさしています。

沙織は対話もなく逝ってしまった夫に対して感じうる猜疑心、怒り、失望、悲しみ、幸せな夫婦関係への渇望、などは一才口にしません。そんな感情は存在しないように振る舞っています。その押しやった、どこにも受け止められない沙織自身の感情が彼女の無意識の中で膨らみ、怪物となって、親の庇護の下でしか生きられない年齢である存在の湊に対して、沙織を”貪り食う母親”にさせている。

沙織の夫との人生は、”沙織がイメージする幸せ”であったといえるものではないのに、湊が異性と結婚すると幸せになる、という”沙織にとっての幸せの絵柄”を描くことを当たり前に期待し、それを見届けることでしか満足できない、という心理状況を笑顔で湊に語ります。リアルな湊の意向は何もくまれてない。背筋が凍るほどにゾッとさせられます。

真実と向かい合うことに対する恐怖によって沙織の中で静かに凶暴化する怪物性は、湊との繋がりを破壊し、湊が湊であることに罪悪感を感じさせる形で、湊の魂を否定しています、沙織はそのよな関係は求めていないにもかかわらず。自分の怪物性が湊との関係や湊自身を破壊しているところに全く気づいていない、というところに、押しやられた感情や記憶で育まれた誰しもの深層心理にひそむ怪物がなすわざの恐ろしさを感じます。

妻に隠して他の女性と関係を築いていた夫と沙織の間でおそらく会話がなされなかったのと同様に、沙織と湊の間で、お互いの感情を吐露したり、対決するようなやりとりは存在しません。沙織は夫の全てを知っているつもりだったのかもしれません。それならば、なおさら彼の最後は沙織の中でIntegrateできる事ではないでしょう。彼の未知で恐ろしい怪物的な側面と対話することができず、意識から排除することしかできない。美化された部分が全てであるように捉えるしか正気を保つことができない状態です。

このようないっぱいいっぱいの沙織の心理構造は、未だ社会で偏見を持たれているクイア性について、ありのままの湊を受け止められる状態ではないことが示唆されています。

知りたくない事実を考えないようにする、あるいは、色々理由をつけてJustityして感情を押し殺してその側面を”大した事はない”とする心理状態は特別なものではありません。誰しもが程度の差はあれやっていることです。

ここまで、沙織の中の怪物性について話してきましたが、沙織と他者との関わりはどうでしょう? 学校に何度も何度も足を運ぶ沙織は、学校の先生たちからは”モンスターペアレンツ” 手に負えない怪物のような存在として描かれています。(@26分)同時に、何度話しても煮え切らない態度をとり、感情を通わせ合う事ができない先生に沙織は自分が知っている人間ではない何か、怪物的な不気味さを感じ、怒りを覚えています。沙織は校長先生にいいます 「あなたには人の心ってものがない。(略)みなさんさっきから目が死んでるんですけど。私が話してるのは人間?(略)一人の人間として向き合ってもらえますか?」

興味深いのは、沙織も学校の先生達も、見たくないもの、不可解なもの、取り扱いがめんどくさいもの、言い換えれば怪物的なもの、について、まるで存在しないかのように振る舞い、口にすることを全力で避けている、という共通点です。沙織も、湊も、先生も、みんな真実を知ることを恐れていて、同時に真実が周囲にバレることも恐れています。恐怖におののいているそれぞれの怪物が暴れ回り相手を攻撃したり無視してコミュニケーション不全になり、混乱して悲しくて、不安になっているのに、その内なる怪物性を誰も止めることができない。




映画第二部の保利先生はどうでしょう?映画では、若く、熱意のある、湊の学校に新しく赴任してきた先生として描かれています。プライベートでは、彼の恋人によると、誤植を見つけては出版社に手紙を送ることを喜びとしている、という描写から、彼は文字の”間違い”を見つけ、その間違いの責任を出版社、という自分より大きな存在に間違いを認めさせることで自分の存在価値を確認する、という心理状態が見てとれます。

保利の赴任時は、組織の中で母親的な存在である校長先生位は不在です。さらに、その校長先生は復帰してからも、孫をなくした可哀想な人、をアピールし、周りに校長先生としての責務を全うすることを求めることに対して罪悪感を生じさせ、腫れ物に触るような対応を暗に強いています。彼らの間で、校長先生の感情や考えていることについて対話はありません。機能不全な校長先生に対しての思いを口にする人は誰もいません。保利は甘えていたガールフレンドにも突然捨てられてしまい、導き保護してくれる先輩先生達から見放され、学校からも追放され、一人ぼっちになります。保利は、まるで親不在の見捨てられた孤児、Orphan archetypeを象徴的に体現しているようです。


マッチ売りの少女、ロードオブリングのフロド、フローズンのエルサ、などが持っているアーキタイプとしての孤児の象徴的なポジティブな要素は、新しい環境への適応力、自律していて、他者への共感力が高く、強い道徳感を持っている一方、人との信頼関係の構築の難しさ、捨てられ不安からくるしがみつきや固執などがあります。

保護者や新聞に暴力教師、モンスター教師とレッテルを貼られ排除される保利の、誰にも理解されない悲しみ苦しみは、クラスメイトからも疎まれる依里や湊と同じ性質のものです。彼らはその感情を共有することができたら、分かりあう対話を始めるきっかけになり、傷つけあうことを終わらせ仲間意識を育む事ができたかもしれません。

同時に、保利は”男なんだから”、等、文化や社会全体で共有されている”あるべき男性”の姿を湊にも押し付け湊の魂を否定する、という怪物性もみせています。これは、保利もまたその社会という怪物の餌食となっていることを表しています。文化的価値、社会的規範という怪物の庇護のもと生きている私たちは、その力に飲み込まれ、怪物化し、社会という大きな怪物の一部となっています。ゾンビ映画などでも描かれているゾンビに噛まれた人間がゾンビ化する地獄絵図がその構造を象徴的にあらわしています。

最後に、依里と湊の変容について述べてみたいと思います。
湊に比べると、依里はすでに自分の性質に以前から気づいています。父親の否定的な関わりのせいで、その性質は、悪いもの、治療して変化させなければならない特性、という自己否定的な感覚も内包しています。父親やクラスメイト達は、依里を否定したり排除したり、からかったり、いじめる、という関わりをします。

彼らのその怪物的なアグレッションは、依里や湊の理解できない側面に対して攻撃する側が抱く漠然とした恐怖が行動化されたものです。彼らは自分の内面に湧き上がった恐怖の感情を自覚していないし、自覚していないから言葉にすることもできず、その結果、自分の中で恐れている”何か”に対する恐れから目をそらすために、その何かよくわからない自分の一部である怪物的なものを依里や湊に”投影・プロジェクトしていると言えます。

自分の中から生まれた煙で自分が窒息しそうになっている時、火元は自分の中にあるのに、何か外にあるものに対して消火剤を闇雲にふりかけている感じです。

依里や湊は何もしていないのです。人々の生活を何も脅かしていず、私たちと同じように、ただ彼らは彼らであるだけなのです。

(これを書きながらニュージーランドの議員が同性婚を認める法律が成立した時に行った演説を思い出しました。この演説がなされた時、日本では夫婦別姓についての議論がなされており、保守派からそんなことを認めたら日本が培ってきた家族の形が壊される、という恐怖ベースの反対が湧き上がり、結局法案成立になりませんでした。https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/26/gay-marriage-speach_n_7439602.html)

なぜ火ないところに煙を見てパニックになってしまうのか?それは、他者を鏡のように使って他者に自分の火を見ている、というプロジェクションが起きているからとも言えます。そして、そのプロジェクションが起きている、ということに気づいていない私たちの意識が理由かもしれません。


次に、湊と親しくなる前の依里の隠れ家、廃棄された電車の車両の変容の象徴的な意味を見ていきましょう。最初、電車は廃棄された時から朽ちていくプロセスが進んでいる無機質な空間でした。まるでお母さんが出ていってからずっとその帰りを待っている、捨てられた、廃棄されたと感じている依里の色彩のない心理状態を表しているようです。その後湊というパートナーを得て、湊が自分自身を確信していくまでの過程で、宇宙のビックバン、というテーマのカラフルでクリエーティブな空間に生まれ変わります。

ユング心理学では、家は、その人のSelf、自己、その人となりを象徴するイメージ、として捉えられることもあります。その視点から見ると、依里と湊の内面は、あのバスの中の空間のように、ワクワクするほどに豊かになっていることが描写されています。

依里と湊は、お互いを映し出す鏡のような対象、あるいは陰と陽、光と影、のような対(つい)のような補完(Compensation)し合っている関係と言えます。お互いをプロジェクトし合い、伝え語り合い、ふれあい、混じり合うところが、他の登場人物達の自身の内面や相手との関わり方の違うところです。

彼らが出会った頃、依里が湊を秘密基地に連れていく時、トンネルを抜けて一段高い電車がある高みに依里が湊を引き上げます。
逆に、最後のシーンでは、同じ場所で、湊が傷ついた依里を引き上げます。性的嗜好の認識では最初は依里が先をいっていて湊を導いていたけれど、最後は湊が父親からの虐待により依里が陥っている危機を察し、依里を救助し保護する側に回っています。お互いの立場がより対等なものへと成熟したこと、湊の自己肯定感が育ったことを、これらのシーンはシンボリックに提示しているのです。


(@1時間33分)怪物だーれだ、というゲームは、他者の連想によって何かが定義されるゲームです。食べられるもので、割とぽっちゃり代表、という依里の連想から湊は豚を連想します。湊の、食べられるもので割と高級品、という言葉から依里は蝸牛(カタツムリ)を連想する。(カタツムリの漢字に牛、という肉の一種が含まれているところにクスッと笑ってしまいました。豚と蝸牛はサイズも生態も全然違うのに、漢字だけ見たら豚肉と牛肉、と対のような存在です。Boldな豚とスライミーナカタツムリ。。。)

依里は、”ナマケモノ” のについての連想を、”君は蹴りません、毒も出しません。君は襲われた時ぜーんぶ力を抜いて諦めます。感じないようにする。” というと、湊が、それは星川依里くんですか? と答える。

その後、二人の間で、一瞬時間が止まります。

湊にとって依里は、周りからの攻撃に対し無抵抗で、諦めいて、脱力して全ての感覚を止めて、痛みも怒りも悲しみも何もかも感じないようにしている、ように見えている、というのがこの会話から理解できます。

感じないようにして痛みを凌ぐ。
どれほどまでに辛い気持ち、状況でしょうか。
その感覚が、二人の間で、そしてそれをみている私たちにも共有されます。

ちなみに、ナマケモノの英語名はSlothで、日本語のネガティブなイメージがある”怠け者”、というニュアンスは英語名には含まれていません。日本人がイメージする怠け者の要素がナマケモノ・Slothにプロジェクトされて名付けられただけです。Slothがゆっくりしか動けないのは、生態的な理由からで、瞬発的な動きをする筋肉を持ち合わせていない、食べる植物の消化にエネルギーを費やさなければならない、その割にカロリーが低いのでエネルギーを保存しなくてはならない、ゆっくり動くことで天敵から見つかりにくいよう、風景にブレンドインするため、などの理由があります。

ナマケモノが依里をシンボリックに象徴している要素は、どちらも周りからネガティブな呼びかた(豚の腐った脳みそ)や、認識をされている、という所と同時に、周りには考えも及ばない内面では、ナマケモノも依里も、彼ら独特の行動があり生態がある、ということなのです。何かが劣ってるとか、正常ではない状態とか、そういうことでは全くないのです。

最後に、この映画の最後のシーン。嵐が去った翌朝、二人は隠れ家の電車を出て、水浸しのトンネルを抜けて明るい草原にでます。依里が生まれ変わったのかな と呟くと、そういうのはないと思うよ、元のままだよ、とはっきりと湊が返します。そっか、よかった、と依里がいう。そして楽しそうに走り出します。

嵐、明るい光、どこまでも続く線路は、少年たちの内的な変容を象徴的に表しています。

嵐はあたかもシンボリックな意味での父なる天のように彼らを他者から切断し、彼らの繋がりを強化する手助けをしています。同時にそれまでのクラスメイトや大人達からの扱いは、このひどい嵐が象徴するように彼らのアイデンティティーを試し、心が死にそうになるような試練を与えてきました。雨や風に翻弄され、視界も悪く、嵐から避ける場所もない中を、彼らはずっと歩いてきていました。象徴的には、彼らの心はもう何度も死にかけていた、あるいは死んでなお生き返る事を繰り返していたともいえるかもしれません。彼らは時間をかけてお互いの存在の中に自分を見出し、お互いを支え、肯定し、共に嵐の中を歩き、生き抜いてきました。

嵐で道路が塞がれボロボロになっている街に取り残されている人たちとは反対に、映画の最後に至った彼らの心理状態は、十分な水分を吸い込んだ草木が、サンサンと降り注ぐ太陽を浴びて生命力に満ち、生き生きとしているイメージが象徴的に表しているように、喜びと祝福と確信に満ちています。他の人たちが知り得ない自分たちの世界観、自分たちであることをこれほどまでに自己肯定出来るほどこの少年たちが変容した姿は、その過程がいかにシビアであったか映画を通して感じているからこそ、感情を深くゆすぶられます。

そして、線路の先には、トンネルが見えます。これはまた、彼らのこの先の道に、通らなければならない暗闇があることを象徴しています。それは、彼らにも見えている。だけど、彼らは今この瞬間を生きています。次に来る暗闇を思って塞ぎ込んではいないのです。あのひどい嵐をくぐり抜けた、という自信がそれを可能にしているのかもしれません。

トンネルが象徴するものは何でしょうか?冷たくてあるいは暑くて空気が足りなくて息苦しい場所なのか。子宮の中のような心地いいものなかのか、次のフェーズに行く前に達ワープするみたいな空間なのか。

今日の投稿を終える前に、、、この映画は他にもたくさんの興味深いシーンがあり、登場人物がいますので、また別のエピソードやポッドキャスト対談で取り上げたいと思っています。

メモ:
自分はどんな怪物性を持っている?
怪物と心を通わせる、ということ
象徴的に何を表している?
無意識のコミュニケーション。

#プロジェクション #アーキタイプ #毒親 #シンボル #象徴的描写

それでは今日はこの辺で。 
またお会いしましょう。
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