【のう蔵エッセイ】サウナとカルチャーのハナシ

とある金曜日、仕事を終えた僕はいつものように都内某所のサウナにいた。

全身の毛穴から流れ出る大量の汗とともに、1週間の仕事の疲れを洗い流す。
僕にとっては、1週間仕事を頑張った自分を労わってやれる、この上なく贅沢で、多幸感に満ち溢れた時間である。

いつも通りサウナに入っていた2セット目の休憩中、僕はふと思った。
「今日はいつもよりととのいイスが空いているな…」

その施設はもともと大混雑するような施設ではないのだが、普段なら10席あるイスの8割は埋まっていたはずだ。
また、その日の客層は若者が少なく、ポッコリお腹のおじさん(失礼な言い方だが)が多かった。

そんなことを思いながらサウナから上がった僕は、行きつけの居酒屋に向かった。
サウナから軽く飲んで帰るのもいつものルーティンだ。
居酒屋の扉を開けると、にぎやかな声が店内に充満していて、席は満席に近かった。

その店は個人経営で、お世辞にも混雑しているとは言えないお店だった。
そこが一人飲みの僕には居心地がよく、よく利用していた。
しかしこの日は仕事終わりらしきサラリーマンから若者まで酒を酌み交わし、混雑している。

この前まではこんなことはなかった。
そう、いつの間にかととのいイスと居酒屋の席の混雑率が、気が付けば逆転しているのだ。

おつまみ3品とビールとメガジョッキのハイボールを2杯流し込んだ僕は店を出た。
自宅までの帰路を歩いているとき、心地よい夜風にあたりながら漠然と
「サウナブームも終わったのかな…」
と思った。

サウナをブームから文化にしたくて、微力ながら情報発信をしてきた自分にとって、どこか寂しさにも似た感情が込み上げてきた。

そこで僕は思った。僕が掲げてきた文化(=カルチャー)とはいったい何なのだろう。
とっさにスマホで調べてみた。

載っていた広辞苑の定義によると
「1.人間が自然に手を加えて形成してきた物と心の両面の成果」
「2.西洋では、人間の精神的生活に関わるものを文化と呼ぶ」
とある。

このことから、文化とは人間の生活の中に落とし込まれた、精神的な豊かさを生むものだと理解した。

僕が目指すものは、まさにサウナにおける心や精神性の豊かさの部分だ。
タピオカドリンクに代表されるような目先の新しさや刺激で、爆発的な流行が生まれたとしても、心への影響がなければ定着することはなく、時代に流される。

その分サウナは、中枢神経の興奮が高められ、身体機能の調整が促され、ストレスの解消やリラックス効果が期待できる。サウナ中はスマホがいじれず、デジタルデトックスできる点も大きいかもしれない。
ストレス社会といわれる現代において、文化の形成に必要性な精神的な豊かさとの親和性が高いと思っている。

ここでサウナブームの終わりについて話を戻すと、ブームで新たにサウナに触れた若者は汗を流す快感やサ室や水風呂の刺激の虜になっていたのではないかと踏んだ(もちろん精神の安らぎとしてサウナの魅力を実感している人も大多数いると思うが)。
その点、お腹ポッコリおじさん(もはや敬意を込めてます)は、会社でも家庭でも張り詰めている気持ちを開放できる場として、安らぎを求めてきているのでないだろうか。

しかし、サウナが生活の一部になっているおじさんたちも、最初はサウナ初心者だったのだ。
(おじさんになってからサウナに通い始めたのか、若いころから通っているかは知らないし、知ろうとも思わない)
それならば僕の活動に生かせることは、サウナの魅力として心へのメリットを発信することではないだろうか。
それはサ室や水風呂だけではなく、施設や銭湯自体の空間もそうだし、サ飯もそうだ。
安らぎや安心感が生まれる部分を発信していくことが重要だ。

このサウナを起点にした、心の安らぎの可能性を追求して、サウナをブームから文化にしていきたいと改めて認識した夜だった。

奇しくもサウナとカルチャーは同じ母音を持つ言葉だ。親和性が悪いはずがないのだ。

※感じたことをそのまま書きました。誤字脱字や不快な表現があったらすみません。

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