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「青鬼の褌を洗う女」 坂口安吾 感想文

とても難しい小説でした。

サチ子のフワフワとしたお妾体質と目的意識の持てない生き方が、母のへの憎悪や嫌悪から、そしてその育て方から来ていること、またその母と同じ血を感じながら自分の中に母と同じ臭いを時々嗅ぎつけてしまうことが彼女にとって何とも厭わしく、多くを望まない生き方をする姿として映りました。

しかし不特定に付き合う男達、「私は過去よりも未来、いや現実があるだけなのだ」p.207、と、いつもこれから起こることに想像を膨らませて、「退屈」に風景を見出しています。
俳優や力士に対して細やかに向ける視線は、二十歳そこそことは思えないほど、はやくも老成していると感じました。

「私は自分を幸福だと思ったことはなかった」p.198、その言葉が出発点であることが家の中の複雑さを語っています。
そこから「自由を束縛されることは厭」p.202 という思いに乗じて、関わる男性には執着がなく、大方の男性に等しく優しい、その姿は肉欲にも興味がなく、ただ包まれていたいという孤独への恐怖感から来ているものかと、「家」からひとり離れて行こうという決心から来る寂しさからであると感じました。

人を嫌いと思わないサチ子、相容れない部分も多くある女性ですが、どこかに寂しさと何ともいえない何かがありました。
家を出た孤独、難民としての孤独。

引用はじめ

「昔、あのとき、あの泥まみれの学校いっぱいに溢れたつ悲惨な難民のなかで、私はしかし無一物でそして不幸をむしろ夜明けと見ていたのだ。(中略)私は多分自由をもとめているのだが、それは今では地獄に見える。暗いのだ。私がもはや無一物ではないためかしら。私は誰かを今よりも愛すことができる。然し、今よりも愛されることは有り得ないという不安のためかしら。燃える火の涯(はて)もない曠野のなかで、私は私の姿を孤独、ひどく冷たいせつなさに見た。人間はなんてまアくだらなく悲しいものだろう。馬鹿げた悲しさだと私はいつもそんなときに思いついた」p.228

引用終わり

現実の「家」、現実の戦争体験に絶望を突きつけられ、そこから現実離れしていかなければ生きて行けない孤独を感じました。現実は信じられない馬鹿らしいという。

そして、くだらない現実の中の「退屈」に風景を見出すのだと。

付き合う男達をみんな「好きである」というサチ子。

田代がいう、「愛情が感謝出来る物質に換算できる・・・愛情による職業婦人」p.250
そんな的確な言葉もサチ子は鬱陶しいのです。面倒な人との関わり、特に「愛憎」が嫌いなのだと思いました。

ラストの久須美との夢うつつのシーンが印象的でした。

サチ子は心から久須美を愛していますし久須美も同じだと思いました。年齢のせいか、サチ子は久須美の真実の想いを汲み取れていないのかなと感じてしまいます。

「青鬼の褌を洗う」ということがどのような意味なのか、どうしてもわかりませんでした。

難解でしたが引き続き考えてみることにします。


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