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「千代女」 太宰治 感想文

主人公、和子が十二歳から十九歳の少し手前までの姿を自分語りする小説だった。

日常に起きたことをその感動のままに表現した綴方を、小説家になり損ねた「柏木の叔父」が「青い鳥」に投稿し一等を取ってしまう。
その後書いた「春日町」は雑誌のはじめのページに掲載され、和子の生活が一変してしまう。

十二歳くらいの少女が自分の才能など信じるのは難しい。
よく評価してくれた大人に対して「私にだまされている」と疑っている気持ちがよくわかる。

水彩絵の具を上手く使えなくて、思うような線が描けず色が流れてしまって、全くの失敗作と思っていた写生大会の私の絵が「特選」を取ってしまったことがあっった。
先生の目が絶対におかしいのだとずっと思っていた。どう良かったのか知りたかったが説明はなかった。今でも思い出すほど嫌だったのだ。

「自分は駄目な人間です」と言える和子はかなり大人っぽく賢いと思えた。
周りの友人の妬み嫉みや大人達の虚栄心の動向が透けて見えて、それらを身を持って感じてしまうのだから、その苦しみはいかばかりかと思われた。
ラストの「私は、いまに気が狂うのかも知れません」という括りには、作者の声が聞こたかに感じた。

「青い鳥」に投稿した「お使い」の中で、

「緑の箱の上に、朱色の箱を一つ重ねて、手のひらに載せると、桜草のように綺麗なので、私は胸がどきどきして、とても歩きにくかった」(p.211)

お父さんにお使いを頼まれて、たばこ屋に行った時の「どきどきして、とても歩きにくかった」があまりに良くて、親だったらこのまま遠くへ行くのではないかと想像が広がるのは当然であると感じた。

この小説のラストに母が和子の根気のなさを嘆きながら語る加賀の「千代女」のお話。
「ほととぎす」という題で苦心した句もなかなかお師匠様のお許しが出ず、一晩寝ずに考えて、

「ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり」(p.239)
と書き、お師匠さんに「千代女でかした!」と言わせた。

とても素直で自然で、有りうる限り存分な表現を発揮出来ていて、とても胸に残る響きがあった。
和子の文章にもこの千代女の句と同じ晴れやかな才能を感じるのだ。

「何心無く(なにごころなく)」書いたと、母は言った。何にも囚われず無心で発した言葉が人の心を引きつけるのだから、その才能を伸ばす自由を与えねばならないと思った。

それにしても、世間や家庭や親戚は全く不自由であった。

有名になる、お金が儲かる、虚栄心を満たすなどのしがらみから自由にならなければ、その幼い自然な才能は育まれないと思った。

「小説なんか大嫌い」と和子に思わせてしまう世間の評価と家族や叔父のそれぞれの思惑、父の「普通にお嫁に行くのが幸せ」と、それもまた和子の資質を見ていないような気がしたのだが、父が和子の気持ちをわかっていてくれたのが、せめてもの救いだった。

和子が自分には小説家の道しかないと気づいた時には既に才能が枯れていたようで、柏木の叔父も冷たくなっていた。いかに叔父が自分のことしか考えていなかったかがわかるシーンであった。

大人に言われたから書くのが嫌になった和子の反抗心がわかるのだ。
大切なのは、和子自身が書こうと自分で思う、自己に目覚め、自ら決めた時からがスタートであるのに、そのバランスと時期が一致しなかったのだ。
岩見先生にこっそり手紙を書く、「七年前の天才少女をお見捨てなく」、と。
和子は嫌なくらい大人になっていた。

欲しい時にはなくなってしまっているものがある。

作者の経験がこの作品の根底にあるのか。

幼子の良い資質を自然に伸ばせる環境が現代に少しだけ見えて来たようにも感じるのだが、ことごとくその才能を親が潰してしまう現実があるのは今も変わらない。

特に有名な子役が崩れていく姿にも、親が大いに関わっていることをよく耳にする。

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