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「三四郎」 夏目漱石 感想文

二度目の「三四郎」読書会となり、初読では気付かなかった発見がいくつもありました。

読書会 1(2020.2.14) 感想文

西洋文明がすごい速さで入ってくる中で、それらを瞬く間に享受して行く美禰子は、先端の女性であるし知性も行動も完璧なのに、その活気が感じられない事や全体に流れるただならぬ深い憂いがとても気になる。
 
 美禰子は自分の本音をなかなか言わない。初読の時の美禰子はどんより曇っている印象で、私の中ではっきりしなかった。すでに両親を亡くし、家族のしがらみもなく豊かで自由なのに。
 
 三四郎は、「田舎から出て大学に入ったばかりで、学問という学問もなければ、見識もない」美禰子から尊敬を受けていないと、野々宮と自分を比較しているが、私には何の領域にも属さない真っさらな三四郎にこそ美禰子は安らぎを感じていたのだと思ってしまう。
 しかも自分を好きであると言うのも
わかっていて、美禰子には居心地が良い。

 美禰子は三四郎の前では、自分を偽らなくても良いし、また恋愛のかけひきもしなくて済む。だから美禰子は
「無意識にうったえられる」のではないか。しかし時が経つにつれ、三四郎を好きになって行く感じはある。

 広田先生も野々宮も心は学問ど真ん中、決して美禰子を真ん中には置かない。美禰子のプライドは、はっきり自分を「好き」と言ってくれる男性を常に求めている、いつも美禰子は疲れているように感じる。広田先生も好きであるし、やはり野々宮に一番惹かれている。

 広田先生の結婚しない理由は、なんとなく本当の親がはっきりしなかった様な他人の話として描かれているが、美禰子の亡くなった兄が広田先生と同級生であったと言うことがどうしても引っかかってしまう。
 夢の中の13才の少女が美禰子に思えてしまって、そこに深い憂いの理由がありそうだと想像してしまう。「こころ」の先生と「K」との似たような関係が亡くなった兄にあり、その重大な局面を広田先生が見守って助けた。だから美禰子は広田先生の身の回りの面倒を見続けている。13才の美しく悲しげな美禰子。あくまで私だけの想像であるが。
美禰子の深い憂いは、今の恋愛だけのものとは思えない。

 原口は美禰子の眼を愛している。
絵画のモデルとして、真に美禰子に向き合ったのは原口だけだったと感じた。結婚の決断はきっとあっさりしたものだったに違いない。

 三四郎の失恋は、間違いなく洗礼であるし、これからも「ストレイシープ」であり続けると思う。生きていれば皆そうであると感じる。

 三四郎は与次郎に動かされているだけのようだが、与次郎の一言一言が魅力的で、ウソは多いが的を射ている。「偉大なる暗闇」、「偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違うだけだ」と、人を惹きつける言葉を沢山持っている。

広田先生の評、「与次郎の頭は浅瀬の水の様に始終移っている」とか「あれは悪戯(いたずら)をしに世の中へ生まれて来た男だね」と与次郎を可愛く思っていている表現が何とも面白かった。

 それぞれの人物がくっきり描かれていて、みな魅力的で活力にあふれ日々前進している。

 この時代のこの空気に男性としてタイムスリップしてみたら、この様な環境に身を置いてみたら、さぞかし面白いだろうと思った。

社会人になる前の、かげがえのない自由な時間、自由な学府。
 
読書会  2  (2021.9.24)感想文

今回再読して美禰子への感じ方が少し変わった。
初読の時は、美禰子の憂いばかりが気になって、三四郎や野々宮への思わせぶりな態度を取る、そんな女性だと感じていた。

引用はじめ

「三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使った事がない。大抵の応対は一句か二句で済ましている。しかも甚だ簡単なものに過ぎない。それでいて三四郎の耳には一種の深い響きを与える。殆ど他の人からは、聞き得る事の出来ない色が出る」新潮文庫p.282

引用おわり

美禰子は頭の回転がはやく、はっきりとしていてものの理解がはやい。的確に物事を捉え、すばやく判断し、応えは決まっている。だから余計なことは言わなくても良い。

周りの男性の足りないところが、案外見えてしまうだけに彼女のもどかしい気持ちが察せられる。

そして自らの思いと多くがすれ違ってしまうことに葛藤しているように見える。

広田先生の引っ越しの時、三四郎と雲を見た時も、すでに好意を持ったのは美禰子だったような気がする。与次郎の荷車が来た時、「はやいのね」と三四郎との時間を惜しむように言った言葉が物語っているように感じた。

そして三四郎に対しても、結婚の相手ではないことを悟るのも早いのだ。貸したお金を受け取らない頃は、やや三四郎にも脈があったが、その後の展開はあまりにもきっぱりとしていた。

菊人形を観に行った時の、

「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
「責任を逃れたがる人だから、丁度よいでしょう」新潮文庫 p.146

美禰子が思う相手の思想や生き方が、彼女の望む正しさに叶わないこと。 
また、広田先生の言うところの美禰子の持つ露悪性が生み出す結婚の理想と、全くちがうところで自然に湧き上がる「好き」という真実の感情との葛藤が彼女を苦しめているのだと思った。


理屈なく「好き」と思う気持ちを通すことができない現実。
このことが美禰子の「ストレイシープ」という虚な空洞のようなわからない自分だったのではないかと感じた。

最後の結婚に至る姿は、少々乱暴な気がしてちょっと悲しかった。

私の書いた美禰子の「虚な空洞」との言葉に、今回の読書会での解釈がとても参考になった。

形式でものを語る美禰子は洗練されていて、男性をえり好みする姿が作品の中に目立つ。それら乱暴な行為が広田先生のいう「露悪家である」いう美禰子の一面である。

クリスチャンかどうかはわからないが、最後の方の聖書の引用を見ると、「神に献身」している美禰子が神の前で「ストレイシープ」であることが窺えるから、心は空洞ではなく神で満たされているということであり、この世の偽善と露悪と、神を信仰する心の善悪とを保っていると言う解釈である。大いに納得した。いつも大変気付かされるのだ。

三四郎は、都会の生活や周りの人間に多くの刺激を与えられ翻弄され、結局ずっと受け入れるばかりであったような気がした。

「亡びるね」という郷里では、絶対に聞くことのなかった言葉、
「熊本より東京は広い。日本より頭の中の方が広いでしょう」
「この言葉を聞いた時、真実熊本を出たような気がした」p.24

最初の広田先生との偶然の出会い、目の前がぱぁーっと開けていく新鮮なシーンが印象的だった。

そして最後は、やはりまた熊本へ帰る三四郎を想像してしまった。

私は、広田先生の語る「悪戯をしに世の中へ生まれて来た男だね」という与次郎がとても面白く、狡さはあるが正直で優しくて好きだった。

新しい文化に、そして人に触れて、未来の希望の光のようなものを受けた時のショックと興奮を、なりたい自分を想像して、新鮮に上機嫌な気持ちになった若い頃を、読む度に思い起こさせくれる作品である。








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