見出し画像

「戦争と一人の女」 坂口安吾  感想文

引用はじめ

「私は家や街や生活が失われて行くことも憎みはしなかった。失われることを憎まねばならないほどの愛着が何物に対してもなかったのだから」p.175 新潮文庫

引用終わり

戦火の中、何もかも消滅してしまえば自分の何かが贖(あがな)えるのでないかと思っていたのだろうか。愛着のない生活がとんなに空虚なものであったのか、外見の放埒さからは見えない、刹那を過ごしている女の姿が映った。

女は自由に自分の思うままに怠惰な日々を送っている。
「自分を生きる」ということを女郎の時代に、疾うに捨ててしまったように。
人並みに「生きる」ということを既に放棄し「地獄から来た人間」と自覚した。
過酷な環境の中で、人々を憎み続けでいる自分の姿をも自分で憎んでいるのではないかと感じた。

恐怖で凍りつくような戦火の中でも、「地上の広茫たる劫火だけが全心的な満足を与えてくれる」p.177 と。

父や母に捨てられた日に見た故郷の雪の山々の景色がこの劫火の奥に燃え続けている気がしていると、今まで重ねた憎しみを焼き消したいと、そう思う一途で純粋な心を覗かせるのだ。

女は不安定な心を落ち着かせてくれる野村に安らぎを感じているのだが、彼女の奥底の本当の姿は野村にもわからない。

フワフワした非現実世界に肉体だけが浮いているような日常を感じた。
怠惰な日々の周りには酷い男達が集まって来る。そして戦争に対しての、人で無しな言動を語り散らかすが、彼女も男達と同じ思いを持っる自分を嫌悪しながら、その男達を憎んでいる。
自覚のないままに汚れ切っている自分が嫌なのだ。

女郎になってしまった時、彼女は既に「女の悦び」を拒絶し封印して来たのたのではないかと、残酷な運命を思った。彼女の身体に染み通っているその特異さを野村は感じ取っていた。

「私はただ子供のときのことを考えた。とりとめもなく思い出した」p.182
どんな場面でも、その切なさは、唯一思い出し得る限りの本当の自分の姿であると感じているのではないか。
「今と対比してるのではなかった」とあるところがこのこの作家らしい。
きれいごとではない。

「私は昔から天国だの神様だの上品にとりすましたものが嫌いであったが・・・」p.182

坂口安吾の特集番組で、「金閣寺より工場の煙突の方が美しいと思う」という言葉が語られていた。
読み終えた作品にいつも感じられる反骨のようなものを嗅ぎ取ったような気がするのだ。

「それは野村自身がはっきりと戦争のもっとも悲惨な最後の最後の日をみつめ、みじんも甘い考えを持っていなかったからだった」p.188

そんな野村を可哀そうだと思う女は、またそういう思いを巡らし考え続ける野村が好きだったのかもしれない。

戦火の中、生死を彷徨うような極限の間のみ「生きる」実感を持ち得た女。虚しく思われた戦後。

「私自身も思えばだだの私の影に過ぎない」p.194
何もかもつかみとれなく過ぎ去ってしまう出来事。
戦争が終わり、平和を取り戻したその時は、彼女がまた影に引き戻されてしまう世界が甦ってしまうからなのだろうか。
「胸が張り裂けるようだった」とあるラストシーンが難解であった。

ひとりの人間の生きて来た過程が、戦争へのそれぞれの思いに大きな違いを生んで行く。
その異なる立場を想像しながら、注意深く生きなければと考えさせられた。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?