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「毛眼鏡の歌」 川端康成  感想文

艶のある女の黒髪、その美しさも一たび身体から離れると、何となく気持ちの悪い不衛生なものに感じてしまうのはなぜだろう。

愛しい人、「きみ子」の黒髪をくずかごから取り出し、その内の「八本の黒髪」を、その地できみ子が触れ、そして生きていた証しのような八箇所の場所に結びつけて行くという少々不気味な、そして切ないような男の姿が描かれていた。

髪を頬につけたり、匂いを嗅いだり、女性から見たら居た堪れな行いが少々気色悪く感じられたが。

幻想と実在とが交錯するような不思議な世界に最初はついていけなかったが、幻を見るような、薄い霧のかかったような美しい情景描写に、いつの間にか引き込まれていた。また自然に対しての流れるような表現が見事だった。

髪を結びつけていく思い出の場所、
何より彼がきみ子を想う姿が一途に感じられた。

「彼は野にも山にも川瀬にもきみ子の幻の城の円柱を立てて来た。これで彼女の幻がこの山を埋めたのだ」(p.262)

悲しみに囚われているようなきみ子の姿は、目の前にいる男を愛せない苦しみの中にいたからなのか、本当に好きな人に伝えられないもどかしさからなのか。

男としては見られない男と過ごし、なぜ床を共にしているのかがとても不思議だった。彼女は彼を人として頼りにし、もしかけがえのない存在だと思うのなら、共に同じ時を過ごせば彼を傷つけるだけなのにと、きみ子のその弱さを思った。

妹のように思わなくてはと、愛することを別な意味に転換していくことは彼にとって本意ではない。

「遠くをごらんになれば御自分のステッキがお見えになりませんわ」(p.257)
暗に言ったこのステッキは、彼の身近な親友のこと、その親友に恋しているきみ子は、それをはっきりと言葉にしていた。

冒頭の「浅黄色の幌馬車が一匹の鹿のような姿で遠ざかって行った」(p.254)という場面。
幻のように去っていったきみ子に、私は「死」を感じた。

「時に谷を埋めてしまいそうな落ち葉だった」(p.254)
そんな表現が哀しさを増す秋、きみ子の幻想に埋没していく男の憂き目を見た気がした。

結びつけた八箇所の髪の毛。
「ブランコの古びた麻縄」にも結びつけた。

引用はじめ

「全くきみ子はここにいる間、このぶらんこばかり乗っていたのだった。きゅうきゅうとその時計は悲しみの音を刻んだ。上から見ているとゆらゆらと落ちる白木蓮の花弁のように、ああやって川瀬の底へ沈んで行くのではないかと思われた」(p.258)

引用終わり

白木蓮の花びらのひとひらが落ちる美しさ儚さが印象的で、きみ子の運命を指しているようで、そこには、やはり「死」を予感させた。

「この花は自分の葉が枯れてしまってから、花茎を伸して咲きますのよ」(p.260)
真っ赤な曼珠沙華を見てそう言ったきみ子。

黒髪の輪で作った毛眼鏡から見えた「蓮華の花開く西方浄土の幻」。
身体は枯れても花茎を伸ばし西方浄土で花開くきみ子を思わせた。

空想にふけり幻想をいだき、きみ子の幻を追いかけているこの男も、もうすでにこの世にいないのではないかと思われた。

「川端康成 異相短編集」の帯に書いてある通り、「生の不条理、死の不可解」、頭の中をリセットして読まないと難解なのだが、やはり文章が美しくて引き込まれた。

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