見出し画像

「死の家の記録」ドストエフスキー感想文

長編なので、今回三分の一しか読むことが出来なかったのだが、大変面白い作品である。

過酷と残酷さは想像以上であった。

囚人の個々の性格や行動の特異さと、それに相反する人間らしさを持つそれぞれの姿を、語り手(ドストエフスキー自身)が、研究者のように細かく「むさぼるように観察」し、分析していて読み手を飽きさせない。

「恐ろしく卑屈」で「中傷と悪口」の絶えない「まっくらやみの世界」に身を置いた時、このように人間に興味をいだくことができるのだろうか。そこに作者の持つ知性を感ぜずにはいられなかった。
書いても書いても書きれないくらいの「あらゆる種類の人間」が彼の何かを刺激したのだと思う。
「囚人を恐れる必要はないと、ぜったい信じている」新潮文庫 p.99
そういう彼の信念が獄中で、彼の何かを突き動かしているように感じる。

ここで生き抜く為には、「自分の知力の限り、能力の限りを注いで打ち込めるようなしごとをもたなければ」p.34
これが人間の本質なのだと思う。

この自由に仕事をすることが、私の感じる獄中のイメージとは全く違っていた。
与えられた仕事だけではなく自分で探す闇の仕事。生き抜くために、また考え求める。そんな意味の自由があったのだ。彼らは監獄を抜け出し、仕事を見つけることが出来たのか?

刑の15分前に飲む1リットルのお酒のために血のでるような金を貯めるとは、何と悲しいことだろう。ただの臆病者にならないために取り繕い、紛らわすためのお酒のために、費やす肉体。

稼いだお金が盗難に合わないように、皆が「旧教徒の老囚人」にあずけておくようになる。
誰もがこの「善良な老人」を信頼するところに、どんな極悪非道な人間の中にも、わずかに残されたかすかな信仰心のようなものがあるのだなと、ちょっと胸を撫で下ろした。皆が同じく老人を信じていることが、より人間らしく感じた。

兄の犯罪には無関係なのに、この監獄に入れられた、穢れのない「アレイ」と語り手との尊い時間。
山上の垂訓(マタイの福音書)を「あるところに感情をこめて」読み上げたアレイに、求めるものの純粋な姿と監獄に入らなければ、アレクサンドル・ペトローヴィッチ・ゴリャンチコフとは出会えなかったという皮肉な幸運を感じ、熱くなる場面だった。

「ええ、イエスはえらい預言者ですね、イエスは神の言葉を言いましたね。本当にすてきです」と。
彼の未来は確実に変わって行く。
そして、彼にも、アレイは忘れ得ぬ人となった。

こんな泥沼にも真っ白い花は咲くのだと涙が出てしまった。

語り手にとって未解決のままの、「同種の犯罪にたいする刑罰の不平等という問題」p.94

犯罪へ至った細かい人間の心理や過程が反映されずに、与えられた同列の刑罰が、「解決不能」の問題であった。しかし、その問題もそれぞれの囚人の生き方や苦しみの捉え方によって、当のの本人達がどうでも良いと思っている場合もあり、何とも感じていない姿に、こちらが真剣に重大に取り組んでも、どうなることでもないと、語り手は言う。


「解決不可能の問題に取り組んでみたところで、どうなろう!」p.96 と作中に響く言葉が印象的だ。

「玉ねぎ一つのために人を殺す」ことと、「自由と生命をまもるために人を殺す」ことが、同じ刑罰であるはずがない。そう強く思ってみても、罰を受ける当人たちがおかれた環境やその刑罰への思いも複雑に違うのだ。不満という認識に至るその環境さえ持ち合わせないほどの過酷な貧しい状況がある。

「民衆の現実や民衆感情を知らなくてはならない」読書会の最後に作家の思いを伝えられた気がした。

読み始めは、この暗さに耐えられるのかと思っていたが、ロシアのこの特殊な環境の、さまざまな人物描写の巧みな作家の力に、生涯一度は読むべき作品であると感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?