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「弟子」 「名人伝」 中島敦 感想文

「弟子」 感想文

 読後圧倒されました。

 ふと新聞に眼を、「折々のことば」に、
「無名の運命のなかで、自分の筋を貫き通して、歴史にものこらないで死んでいった者の生き方に、ぼくは加担したいんだよ」と、
岡本太郎さんの言葉を見つけましたた。 まるで子路のようです。 
私の気持ちも一致します。

子路の「愚かでも、妥協しない、考えを曲げず貫く美しさ」を作品から感じました。

自分から師を選び、孔子の「精神的支柱」から離れられなくなった子路。

「死に至るまでかわらなかった•極端に求むるところの無い•純粋な敬愛の情だけ」で孔子を心酔する男、そうありたいと思っても、現代ではなかなか実現不可能、愛すべき人間像です。

引用はじめ

「上智と下愚は移り難いと言った時、孔子は子路の事を考えに入れていなかった。欠点だらけであっても子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍(ひょうかん)な弟子の無類の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の没利害性のことだ。この美しさはこの国の人々の間に在ってはあまりにも 稀なので•••」新潮文庫p.42

引用終わり

賢い者も愚かなものも変わりにくいが、何より孔子は子路を愚かと思っていない、没利害性。
孔子には弟子として真に力になる人物、信頼を持てる存在だったと思います。教育出来ない悩みはありますが。

なんとなく実は一番わかり合っていて、孔子は子路をものすごく可愛いと思っていたのではないでしょうか。 

しかし、反抗もすごい、「孔子も角を矯(た)めようとしないではなかったが、後には諦めて止めてしまった」
少々の欠点を直そうとしないでもなかったが、やめて大体の方向の指示を与えれば良いと考えたのです。あとは子路が自分で取捨選択、苦しみを選びとろうとも、自分の頭で考えなければならないのです。

 反抗するのに、「子路ほど全身的に孔子に寄り掛かっているものもない」
だから面倒くさいけれど可愛いと。

「どこに行っても大丈夫な人」を見つけ「複雑な思索や重要な判断」は師に任せて安心し切っています。
当世、そういう安心な尊敬出来る人はなかなかみつかりません。子路の気持ちもわかります。そのような師は心から私自身もいつも探し求めています。

子路の大きな疑問、「邪が栄えて正が虐げられる」結局は破滅に終わる、孔子の答えはいつも同じ、子路ははっきりさせたい、「自分は天に反抗しないではいられない」、これは学べば答えのようなものはあるかもしれませんが、子路の純粋な疑問が、幼児からのように伝わります。現代にも全く通じる所で更に深まっているように感じます。

 そこまでの深い師弟の関係の中で、
「夫子の行われるところの九分九厘まで我々のだれもが取って以て範とすべきもの」ではあるが、僅か百分の一が警戒すべき点、絶対普遍的な真理と一致しない部分があると、鋭く孔子を見つめています。これもまた子路の愚かではない能力を感じた所です。いかに孔子を守りたいかにも繋がるようで印象に残りました。

 子路はやがて衛の国の政治に巻き込まれ命を落とす、「由や死なん」と孔子は言います。
子路がやがて死ぬことは、わかっていたし、止められないのもわかっていたと思います。弟子であっても、人は変えられない、子路自身が選んだ運命です。

 書き留めておきたい孔子の言葉も散りばめられていました。少し悲しくなる子路を中心に書きました。
軽妙ながらすごい作品でした。
出会いに感謝です。

「名人伝」 感想文

 初めて読みましたが、文章がくっきりとして美しく、とてもわかりやすくて、生き生きとした人物が伝わりました。

 年月をかけ「天下第一の名人」となるために、努力し辛抱する紀昌は読んでいて見事でした。
「矢矢(しし)相続し、発発相及んで」p.25
最初の矢に次の矢が当たり、一本に連続するかのように百発百中。
 更に上を目指す、人間の欲望は際限ない、特に若い紀昌のそれはすごいものがあると、紀昌が飛衛にムッとする部分は、自分の鍛錬への自負心の高さであると荒々しく感じました。

どんな修行だったのかが描かれていないのが残念です。

 天下一になる為に飛衛を撃つという良からぬ企み、「両人の技が神(しん)に行っていた」p.26、息を呑む描写が上手い。
紀昌は「道義的慚愧の念」p.26と飛衛は「危機を脱し得た安堵と己が技倆に就いての満足とが、敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた」p.26と、短い文章に危機回避と師弟愛がすばらしく表現されていて文章に余分なものがなく引き込まれました。

 最終的に「至為は為(な)す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」p.30と、到達すれば何もしないという精神の世界に入ってしまっていて、更に弓をも忘れてしまうのは、何を目的に射の名人になろうとしたのか、結果、悟りの柔和な姿は立派ですが、やはり誰かの為に射を使って欲しいという気持ちが残りました。
強い者は柔らかいという感じもよくわかります。

 「愚者のごとき容貌」はすでに天の上に達しているのか、それとも「射道の神」p.31がそれ以上のものを見せたくなかったので、その様に変貌させたのか想像がめぐります。

 「唯無為にして化した」p.32


 剣の達人は無駄な動きがなく、自然の力を借りているように美しく見えます。

 以前、剣を極めた人物が自然の力を借りて、無駄な労力を使わず人を持ち上げるという技を介護士の方に伝えていた番組を見ました。

 自然のままでそれに逆らう動きをしなければ何の力もいらないということなのだと思いました。

 究極の鍛錬修練を続け、得られた技を駆使しトップになるスポーツ選手や匠の技を持つ人、最上の位置に至った後の生き方、人生の在り方が大切だと、それが真の名人を決めるという戒めの作品であるのだと思いました。

 この世から去る最後の姿として、弓を忘れ果てた、この結末を考えることがむずかしい、無に近づいたということだと私は理解します。

「画家は絵筆を隠し・・・」と、すぐ達人を真似する凡人たち、自分も笑えないかなと思いました。


 美しい文章が何より魅力的でした。
33歳で亡くなられた中島敦先生は、きっと名人にはなりたくなかったのではとなんとなく思います。

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