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「雨蛙」 志賀直哉 感想文

目立った事はあまり起こらない静かな町、組合と人の助力で安定していて、外界の刺激とは無縁に感じた。

賛次郎は父の死後、酒屋に主が必要であると寄宿舎から呼び出されても、甘んじて素直にその境遇を受け入れる素直で虚栄心の少ない人間であると思う。

しかし、祖母が倒れたとしても、なぜ「せき」をひとり行かせてしまったのか。

「茶色の勝った眼には光がなかった」この表現が、せきの意思の無さを語っている。もしその意思を貫けば、自らの力でGから逃げられたはずなのに。いつも「へい」と受け入れてしまう。教養も含めて、大人になりきれない「せき」の未熟さが歯痒かった。

志賀先生は、純粋無垢な「無心の眼差し」を持つ少女がお好きなのか。

私のこの気持ちは、先日の読んだ「好人物の夫婦」に覚えた感触と同じで、初めて志賀作品に感じた、なんとなく読んだ後スッキリしない気持ちと、そのような作品を書いた志賀先生への意外性であった。

二作の意味はそれぞれ違うのたが、この二人の夫が理解しにくい。もしこれが志賀先生の内面にあるのなら、志賀作品が好きなだけに、更に私の気持ちは複雑になる。
とりわけ「好人物の夫婦」の夫は、遠い昔、女中との恋愛を成就できなかった志賀先生の思いを感じてならない。作中はかなり若い女中に執着があり、歯切れの悪い言い訳に、妻がとても気の毒に思えた。


「雨蛙」で不思議だったのは、Gとの出来事を聞こうとしている時、せきが何となくその事に幻影をを見て陶酔している姿を察している賛次郎が、「それで」と問い、下を向くせきに対して欲情しているところである。 なぜここでなのだと、女性の私には理解できなかった。

虚ろな二人、夫婦なのにぎこちない。

事実がまだわからない時、「心の空虚と戦っていた」という姿に、わけがわからず唖然としている賛次郎の姿も印象に残る。あまりのショックからなのか。

とても似合っていた「耳隠し」という髪型が、帰りの田舎道にはそぐわない、当世風の頬紅も醜く見えたと、賛次郎の心理の移り変わりがよく書かれていて、やはり文章が簡潔で上手いと感じた。
新しい「流行り」はこの町には似合わない。馴染まないその新しさは賛次郎にとって悪に変わったのか。

餌を獲るためなのか、いるはずもない柱の凹みにいた二匹の夫婦らしき雨蛙。
生きるために必死な二匹の蛙が、一瞬、世間から遠く切り離された空間にいる賛次郎とせきのようにも見えた。今、この二人は、現実感から遠く逸脱しているのだと感じた。

蛙に全く興味を示さない「せき」の態度は、その時のせきを物語っている。
生きるのに精一杯、自分は何者でありどう生きて行くのかなど考えも及ばない幼さ。「過ち」が何なのか、また、流産をあまり気にしていないような頼りなさ、遠い後に後悔する「せき」を思い浮かべてしまう。

若い頃は恥ずかしい!思い出してゾッとする。

Hという小さな町、「人の歩くだけは一筋に平石が敷いてあった」
この道は、ひたすら町を守り外界を拒む道のような気がした。

最後に本を焼き捨てる場面、その本こそSとGの作品なのか。
そうだとしたら賛次郎の最大の嫉妬の姿であると象徴的だった。

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