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「二人の稚児」 谷崎潤一郎   感想文

父母の顔も知らない二人の稚児が、訳あって貴い上人に引き取られ、比叡山で仏道を志す。

浮世を知らず女人の顔さえ見たことのない二人の好奇心は、二歳年上の千手丸の心を乱し、歳を経るごとに、その「煩悩」で少年は苦しめられた。

「煩悩を滅せば、やがて菩提の果を証することが出来る」新潮文庫 p.223
悟りの境地へ、という志しの妨げになる「浮世」と「女人」、煩悩の源に近づかせないための経文や「唯識論」などむずがしい種々の教えが、かえって稚児の恐怖を増大させてしまい、好奇心を煽ってしまっているだと、「女人の恐ろしさ」の教えに至っては逆効果であると感じた。

得度の前にその正体を一度でも自分の目で確かめようと、千手丸は命を捨てる覚悟でその恐ろしい地へ向かうのだが、恐ろしければ恐ろしいほどに、瑠璃光丸を近づけたくなく、彼の命を守るべく、正しく清い彼の姿勢がその時には確かにあったのだ。

引用はじめ

「浄玻璃(曇りがなくきよらかな水晶、ガラス)のように清いそなたは、わざわざ危険を冒して、修行をするには及ばないのだ。そなたの体に間違いがあったらそれこそ麿は上人に申し訳ないではないか」 新潮文庫p.236

引用おわり

そして考え尽くした二人の稚児は、「女人は幻」という思いを抱くまでに至る。
思春期の現れの強い千手丸は自ら、「煩悩」に突き動かされていると思いつめ、何とか自分の目で「浮世」と「女人」を見たいというその関心の高まりは絶頂に達してしまった。

今まで想像の域を超えなかった浮世や現実「菩薩のような女人」の姿を見てしまった千手丸は、俗世にどっぷりのめり込んで行き、抜け出せなくなった。まさに仏心を忘れた姿であった。

テレビを見るのを禁止された子供がテレビ中毒になるというひと昔の前の症状と同じだ。

しかし、

千手丸と瑠璃光丸の、「血というものは争われない」、「機根(仏の教えを受ける能力、素質)が違って居た」という上人や人の口の端を信じ、「自分に御仏の冥護が加わって居たのだ」と、その欺瞞で急に千手を見下すように変わって行った瑠璃光丸に何だか虚しさが残ってしまった。

「あの時自分が一緒に行ったら、どんな禍が待って居たのだろうと思うと、彼は己れの幸運を感ぜずには居られなかった」p.239

「悟り」とは程遠い独りよがりの冷たささえ感じた言葉、幼さ故なのかそこにはもう千手の存在を突き放す姿が窺えた。

浮世、下界に下りる前、「機根」(仏の教えを受ける能力、素質)」は千手にも等しくあったはずだ。二人の「機根」は決してちがっていなかったと思う。
俗へ沈んで行った友のような兄のような存在の人を、誰かの手を借りてでも必死に探し、救いに行くべきではなかったのかと、瑠璃光丸の上人に言われたままに動き理解する未熟さに未練が残った。

醜い自分を見つめ真剣に考え「煩悩」と闘い苦しんだ千手丸と同じ思春期を迎えた瑠璃光丸は、決して悟りの境地には至らず、同じように「煩悩」抱えて行くのだ。
自分だけは特別であると思い込むことが幻想であるとしみじみ感じた。

「雛をかばう親鳥の如く」、傷ついた白い鳥を抱きしめ、水晶のお数珠をかけてあげる最後のシーンはとても美しかったのだが、「煩悩」を断ち切ったという瑠璃光丸の理想の「夢」の一場面に過ぎなかったのではないかと感じてしまった。

その後の彼の「煩悩」への闘い、更なる過酷な修行を思い描かずにはいられなかった。

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