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「Kの昇天—或いはkの溺死」  梶井基次郎  感想文

白い布団の上に、黒い小さな丸い点。
ゴミだと思ったが、念の為、虫眼鏡で見てみると、足がついていて動いていた。虫は苦手。
それ以来小さな、特に黒いものは、それが糸屑であっても、目を凝らす度、じーっと真剣に見れば見るほど、動いて見えるのだ、生きているかのように。
自分の影も見つめ過ぎると動き出すのかもしれない。それは脳がつくり出すものなのか、何かに取り憑かれたていたのか、神のおぼし召しなのか。

「K」も「私」も病を持っている。
眠れない日常と過敏な神経のために、満月の夜、N 海岸に引きつけられていったような気がした。

互いにシューベルトの「ドッペルゲンゲル」という曲に惹かれている。

この曲を聴いてみた。青白い月の光が思い浮かんだ。深い悲しみと「苦痛」を胸に抱かせる暗い曲と歌声だった。「影法師」という題名もついていて、まさにこの作品にぴったりだった。

「影をじーっと見凝めておると、そのなかに段々生物の相があらわれてくる。外でもない自分自身の姿なのだが」p.154
とK君は言った。そしてその神秘の中に自分を置き、揺れ動いている。

自分の影が実体化し人格を持ち、形骸は影に導かれて海に入り込む。
そして魂だけが昇天して行く。
残された形骸に感覚が蘇れば魂は戻り、泳げるKは、「溺死」せずにすんだのではないか、という「私」の細かい推理であるのだが、痛切に実態が迫って来るようで、感覚のないままに訪れた死が静か過ぎて、とてもおごそかにさえ感じてしまった。

青い月の光と共に行ったり来たりするK
が切なくて悲しくて美しくて恐ろしくて。

「澄んだ声」、「高い鼻」、「深い瞳」、Kは美しい青年であったと思う。
死期が近づく人の放つ美しさは、何度か感じたことがあった。
Kは確実に死に近づいていたのだと思う。それも自覚しながら自分の想念の内に入って行ったKは既にこの世から離れつつあったのではないか。


引用はじめ

「影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ。このよのものでないような、そんなものを見たときの感じ。——— その感じになじんでいると、現実の世界が全く身に合わなく思われて来るのです」p.156

引用終わり

現実の世界が身に合わなくなるという、それは既に別の世界に足を踏み込んでいるようにも感じてしまう。

歳を経た老人が死期が近づくと、まるでその恐怖を緩和させるように突然認知症になったりすると聞いたことがある。

穏やかに細胞が壊れていく老衰での苦痛のない死と、若い時期に良い細胞が壊れて行く時の死の苦痛は、比べものにならないと思う。

「憑かれる」という実感、そこからの死、それはその若さでの病の苦しみからのがれる為の「神のお導き」たったのかもしれないと読んでいて感じた。

また、Kはそのような導かれ方を望んでいたのではないかとも思われた。

「あなた」の手紙に答える「私」、彼自身の形骸には魂が戻り息を吹き返し、動く影も消え、病状が回復の方向に至ったのではないかと想像された。


Kは自殺ではなく、「溺死」であると、
そして魂は月へ、そう判断したいと思った。


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