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「橡の花」 梶井基次郎   感想文

梶井基次郎の作品を読むと、健康であればそれに寄りかかって見逃してしまうような人間の繊細な機微を、よく見つけ出し観察し表現していて、とても気付かされることが多い。

疲労や頭痛、また天候のせいで体調が悪くなったりすると、確かにテレビで見たくない顔の芸人がいたりする。元気な時は何でも無いのに。

その不愉快さと憂鬱さが際限なく押し寄せてくる苦しさから逃れるために、自然や人を観察し、何かを発見していくことで精神が転換されていくような、無意識の能力が身についているのだと思う。
そしてこのような小説を書かせるのだから、あながち不幸とは言い切れないのではないかと思った。

京都から東京に戻り「橡の花」の開花する五、六月の出来事である。

肋膜を悪くしたり、湿気ですぐに陰鬱になったりする主人公は電車の中の人達へも、「刺々しい心」を持ってしまう。
見た目や服装、髪型まで嫌悪し憎み、やっつけてやりたいとまで心に思う。やや理解しずらい。

気づけば敵をつくっていること、「自分の憂鬱の上に漠とした『悪』を感じたのです」(p.91)と、それを避けたく思う自分がわかっているのも、何より自分なのだから、それはとても苦しいことである。

「調和的な気持ち」、友人Oのような「感情の均整」を渇望しているのだと思う。

以前の梶井作品、「冬の日」もその不安定さを払拭したい、気持ちの拠り所、安んずる場所を求めるように歩き回っていた様子が書かれていたことを思い出した。

電車の響きが音楽に聴こえたり、聴覚、視覚の敏感さによって起こる現象は、時に新鮮で時に厄介なもので邪魔になることもあっただろう。

また自分より健康そうな醜いと感じた婦人を「性におえない鉄道草という雑草」と表し、「悪達者」などと揶揄した。
そして穏やかな友人Oの「健康そうな顔」という表現の中にも、並々ならぬ「健康」への願望と拘りがあることが伝わっってきた。その内面の心持ちは、とてもわかり汲むことができるのだ。

同人誌仲間のAとその実家との間の悶着に対して、Aが「他人の立てたどんな旗色にも動かされる人間でないこと」(p.100)と、そのAの人間像を改めて認識した「私」。
同人誌の仲間がその出版の積立金を親からの金を使わず、自身で懸命に働いていることが分かり、「良い伴侶と共に発足する自分であることを知り」(p.102)と、気持ちの調和を取り戻していく過程が心地良く印象的だった。

引用はじめ

「しばらくして私達はAの家を出ました。外は快い雨上がりでした。まだ宵の口の町を私は友の一人と霊南坂を通って帰って来ました。私の処へ寄って本を借りて帰るというのです。ついでに七葉樹(とちのき)の花を見ると云います。その友人一人がそれを見はぐしていたからです。
道々私は唱いにくい音階を大声で歌ってその友人にきかせました。それが歌えるのが私の気持ちのいい時にかぎるのです」(p.102)

引用終わり

Aが一貫性のある揺るぎの無い人物であること、同人雑誌を出す仲間がいい伴侶であることが彼の喜びを生み精神を整えたのだ。それが一瞬であっても、彼を気持ちよく歌わせた雨上がりのこのシーンがとても好きだった。

「橡の花」の美しさを今回初めて知った。


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