「雁」 森鷗外 感想文
明治13年、「下宿の隣にいた岡田」という友人の儚い恋を語り手の「僕」が物語る。
湯島と池之端の境を東にくだり、不忍池畔へ出るという寂しい「無縁坂」にあるひっそりとした家に
美しいお玉を見かけた岡田。
「無縁」という響きに二人の先行きを予感した。
その時代、お玉の父の飴細工職人の身分がどうであったのか。親子共々静かに受身で生きていて、何者にも抗わない姿が何とも歯痒いのだ。
そして、「持っているだけの精力を一時的に傾注すると、実際不可能なことは無くなる」 p.17という形容の相応しい末造は成功を果たし、何も知らないお玉をお妾にした。
お互いの幸せを願う父と娘であるが、世間への見識の浅さが身を守れないのだ。婿に入った巡査には妻子がいた。人の好い父と娘は騙されてしまう。
妾を持とうとする松造が、松源という料理屋での目見えの席、父とお玉と3人て打ち解け、「幻のように浮かんだ幸福」を感じ自分の家庭では感じられないものを得る。
欺瞞に満ちた己の家庭生活からは生み出せない刹那の幸福感に首をかしげる。なぜこの感じが我が家にはないのだろうと。妻をないがしろにしている自分は蚊帳の外であり、何より小賢しい計算高さがその所以である。
末造の仕事が、世間で冷ややかな目をもって嫌悪されている「高利貸」であったことを知り、強い「悔しさ」は、はっきり「心の目」に現れ、胸の鬱結(うっけつ)の本体になりうる物であったのではないか、と書かれてあり、ずっと抱えている重い引け目からの滞りを感じ、お玉への憐れみを増してしまった。 真面目すぎておとなしくて無垢なお玉が、岡田を好きになることで、少しづつ女の本質を露わにし、大人に変化して行く自然な姿がとても良く描かれていた。「あきらめ」からの脱出。
引用はじめ
「少壮な身を暖かい衾(ふすま)の裡(うち)に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような写象が萌(きざ)すからである。お玉の想像もこんな時には随分放恣(ほうし)になってくることがある。
そういう時には目に立つ一種の光が生じて、酒に酔ったように瞼から頬にかけて紅が漲(みなぎ)るのである」p.119
引用おわり
お玉が初めて見せるの不精な姿、内面には岡田への思いが身を熱くしている。そんなお玉の大人への変化が僅かなお玉の熱い解放のようで、私には晴れやかに清々しかった。
自分らしくいてほしい。少しでも。
お玉のこの美しさは自分が起こさせているのではないかという大きな勘違いをする末造にもしてやったりであった。
お玉の胸の中には岡田しかいない。
『「青魚の未醤煮」が釘一本と同じ効果となり』と、面白い結末に、とうとう岡田とお玉は生涯逢うことが出来なくなっった。
「雁」を飛び立たせて助けようと投げた石が、雁を殺すことになってしまった。
岡田がお玉に救いを投げかけても、やがて立場や境遇の違いでお玉を更に苦しめて行く前途を想像してしまった。
鳥籠に頭を突っ込んだ蛇は岡田だったのかもしれない。末造を食ってしまったのか。
岡田は自分で自分の身を切って、お玉と縁を切ったのだろうか。