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「善蔵を思う」 太宰治 感想文

「帰心」

冒頭の、「嘘でないものを、一度でいいから、言ってごらん」という言葉を投げかけているのが「善蔵」であるのだとすれば、この小説は、その「一度も欺かなかった」善蔵への釈明のようなものであったのだろうと思われた。

贋物を売りつけられたと思ったものが実は価値があったとなると、急に売った人間が善人に見えるということは事実あるのである。
それらを寸分だがわずとは言えないまでも、恥を晒すような細かな心の動きまでも文章にすることが、いつもながら作家を魅力的にする。

贋物、押し売り、と、悪質さを心で罵りながらも買ってしまった薔薇の価値が素晴らしいとわかると、その売りつけた百姓女の顔が見たくなるという見事に一変する姿は、過去から引き摺る精神的に追い詰められていたという心の不安定さから来る印象が強かった。
物事の捉え方が極端で、怯えているような、猜疑心と自信のなさを感じた。
自分の行いをその都度反省しながらも、自分の思うような生き方や行動を起こせないジレンマが作家自身をもをイライラさせていた。
郷里の人々の会合に出る決心をするも、良い袴をはいて出席するという拘りの姿にも、どう見られたいかを意識し過ぎるあまりの、その時の心細い思いの現れであり、更に良い印象を定着させようとする姿がますます痛々しく、故郷との関係のまずさを物語る。

故郷の人々が、太宰の行いをどう捉えていたのか。書かれた書物も読まれないという屈辱が、事実以上に作家の故郷への憎悪を増大させているような気がした。
小説家は、読んでもらわないと理解されない。故郷の人々に読まれないのは、それでだけで既に同じ立場に立てないのだから虚しさと悔しさは計り知れない。どんなに世間体が悪い中味でも、細部に向き合えば何かを打開できたはずであったのに。読まなければ才能も見抜けない。

「いよいよ秋に入りまして郷里は、さいわいに黄金色の稲田と真紅な苹果に四年連続の豊作をむかえようとしています」p.156という言葉に、出たくない集まりにも「出席」の文字を書かせてしまう。

心乱れる程に望郷の念が深いのであり故郷を愛しているのだ。

一番切なかったのが、十年も見なかった土地への帰郷。
自らの苦悩の中で身動きが取れなくなっている。

自分の起こした事件やその罪への悔恨と、「被害妄想ではない」と書きながら、故郷の人々が自分へ向ける懐疑的な態度をさらに自らの想像で増幅させているような、作家の深い暗澹(あんたん)たる思いを感ぜずにはいられなかった。

引用はじめ

「もう十年も故郷を見ない。八年前の冬、考えると、あの頃も苦しかったが、私は青森の検事局から呼ばれて、一人こっそり上野から青森行きの急行列車に乗り込んだことがある。 中略裁判所の裏口から、一歩そとへ出ると、たちまち吹雪が百本の矢のごとく両頬に飛来し、ぱっとマントの裾がめくれあがって私の全身は揉み苦茶にされ、かんかんに凍った無人の道路の上に、私は自分の故郷にいま在りながらも孤独の旅芸人のような、マッチうりの娘のような心細さで立ち竦み、これが故郷か、これがあの故郷か、と煮えくりかえる自問自答を試みたのである」p.158

引用終わり

わずかに自身が描いた「衣錦還郷」、故郷に錦を飾っていれば、こんなに惨めな思いはなかったはずである。
迎えてくれる者は誰もいない、懐かしい名物も口にすることなく、「屋台で、支那そば一ぱい食べたきりで、そのまま上野行きの汽車に乗り」p.159と、これ以上の淋しい屈辱があったのだろうかと、たとえ己の為せるわざであろうとも、その一言では片付けられない無情な、あまりの「惨めさ」に胸が凍った。
故郷への思いの深さ、複雑さが、更に意識を混濁させていくように辛く伝わった。

自分の内に呑み込まれてしまそうな時、「出たくない」と感じた集まりには出ないほうがいい。
時が経てばきっと事態は変わったはずなのにと思うのだ。
時を生き急いでいた太宰治という作家の姿がとても刹那的に映った。チグハグな行動が、その点が点滅はするが繋がって行かないという思いが残ってしまうのだ。

贋物から売りつけられた「見窄らしい薔薇が」見事な花をつけたのだから。きっと強く生きられたはずなのに。つくづく惜しい気持ちが残るのだ。


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