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「母を恋うる記」 谷崎潤一郎  感想文

「私の胸には理由の知れない無限の悲しみが、ひしひしと迫っているのである」p.260

七つか八つの「私」を夢の中に見た「私」。

作品を読んで、なぜか悲しみを引きずってしまった。行き場のないような冷たいさびしさがなかなか離れていかなかった。

夢で見た景色を、現実のように夢の中に見て、それをまた夢で見ているような、青く冷たい世界が美しかった。

月の光が照らす「白い一筋の街道」、それがくっきり私の脳裏に浮かんだ。暗闇は深い青であれば、尚美しく想像力を増した。

子供の悲しみは、「急激に没落した家族の悲運」なのか、乞食のような身の惨めさをなのか。

「透き通った清水のように澄み渡った悲しみ」 p.260
悲しみのためばかりではない悲しみ、清らかな悲しみが「私」に迫ってくる、それこそ甘美であり救いにも思えた。

没落の悲しみ、裕福であり続けられなかった美しい母への思慕、
谷崎が抱えていた忍びない気持ちが伝わるようだった。

この子の悲しみとは、何よりもここにいない母を想い、恋慕って追い求めて探し続けた姿であった。
その悲しさは、暗闇の恐ろしさより勝っていた。

「恐らくあの暗闇を歩いた折には自分は魂ばかりになって居たかも分からない」p.263
肉体はそこにはなく、魂だけが彷徨っていた。
「無限の悲しみ」を抱えた魂は暗闇などは何でもないのだ。 

月の青い光だけが共に歩く。その世界が、彼の救いでもあるかのように。

松のざわめき、枯れていく蓮の花のひらひらした「音」、正体不明のそれら「身に沁みる音」に耳傾けて、「とぼとぼ」歩いて行く子供は、ただ美しい母に逢いたいという一心から目的地を探し揺れ動いていた。

月を見て、その光に「死」を想像し、「永遠」を考えた子供の「私」は、既に大人の「私」になっていたのではないかと、長い時間の経過を感じた。
もしかしたら既にこの世のにはいなくなっていたのではないかと。

引用はじめ

「路には磯馴松(そなれまつ)があって、浜には波が砕けている街道を、二年も三年も、ひょっとしたら十年も、私は歩いて行ったのかもしれない。歩きながら、私はもうこの世の人間ではないのかと思った。人間が死んでから長い旅に上る、その旅を私はしているのじゃないかと思った。兎に角それくらいに長い感じがした」p.280

引用終わり

最後にやっと出逢えた、若い美しい三味線ひきの女。
自らが母であると云う。
共に流した涙は、私の涙ではない、「月の涙」、「悲しのは月のせい」と母は月の面のような頬で話し、悲しみを共にした。しっかりと母に抱きしめられたこの瞬間が、彼の「永遠」であったのだと、「死」も重ねて見えた気がした。

長い長い夢を見た「私」、目を覚ました時は三十四歳になっていた。
母は二年前に亡くなっていた。
大人になった彼がいだき続けた母の姿は、あの三味線ひきの美しい白い肌の女のまま、ずっと止まってしまっていたのだと思った。
没落によって惨めな母の姿を掻き消してしまうために。

「無窮の国を想わせるような明るさ」p.258、「青白い静かさ」、そんな月の光が彼を別の世界へ連れて行ったのだ。

暗闇と光、静寂と沈黙と音が冷たすぎるくらいに美しく響いてくるお話でした。
 

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