余韻の話

 余韻が好き。映画でも音楽でも小説でも、余韻が残れば残るほど良いと思う。私はいつもその余韻の中で、その物語や歌詞の続きに思いを馳せる。彼等の居る世界が、どうか私たちの居る世界と通底していてほしい。

 『嗤う分身』という2013年公開のイギリス映画がある。ドストエフスキーの『二重人格』を原作とした、いわゆるドッペルゲンガーものなのであるが、きっと死ぬまでこの映画より好きな映画は現れないだろうと思っている。脚本から演出から何から何まであまりにどストライクすぎてしまい、映画館で観てブルーレイも買ってApple TVでも買ってしまったぐらい。もし私の葬儀に参列予定の方がこの記事を読んでいたら、お願いがあります。ブルーレイを棺桶に入れてください。天国で観ます。前に作ったPOPEYE風レビューを載せておくのでよかったら読んでください。

 この映画、劇中で何一つ設定が詳らかにならない上に、初見では本当に意味のわからない終わり方をするのである。かと言って全体を通して現実にはあり得ないような世界観ではないし、そんな世界観を纏った主人公の最後の台詞も、意味深なところが好き。良い意味で程良く残された余白が私たちにその後を想像させる余地を残している。芸術作品かくあるべし、とすら思う。偉そうにごめんなさい。けれど、何もかも説明されてしまったら解釈する意味がない。私たちはそこから何を知って、学んで、いかに自分たちの人生に投影していくのか。必ずしも目にした全ての芸術作品がそうではないが、これが芸術作品と対峙するときの私なりの哲学だ。

 一つ書き忘れたことがある。大切な人と会って別れたあとの胸を締め付けるような余韻も、何にも代え難いものがある。そんな余韻を感じていた折、シェイクスピアが遺した、こんな台詞を思い出す。

All the world's a stage, And all the men and woman merely players:
すべてこの世はひとつの舞台、すべての男や女は役者にすぎぬ

 私たちはこの大舞台に立たされた一人の役者なのであり、演じる役次第で誰にでもなることができる。今の役に不満があるなら新しい役を演じればよい。それが自分の人生を生きるということなのだから。どこかに仕舞い込んでいたこの台詞を思い出させてくれたあなたも私も、再び太陽を迎えるかもしれないし、二度と目を醒さないかもしれない。はたまた、結局のところただの通りすがりだったのかもしれない。この余白だらけの物語が続くとしたら、いつかまた大舞台の片隅で出会したとき、相手に恥じない台詞を言える役を演じていたい。そうして私はこの世界のどこかに生きる、大切な人の不確かな未来に、たった今思いを馳せる。その、余韻の中で。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?