【短編小説】賃上げ=価格交渉
「社長。予定の時刻になりましたので、団体交渉を始めます」
労働組合執行委員長の金村は緊張した面持ちで団体交渉の開始を宣言した。
社長の大場はうなずいた。
「今日の交渉は、組合を結成して初めての団体交渉になります。お互い面識がないと思いますので、交渉に先立ちまして、自己紹介をしたいと思いますがいかがでしょうか」
「わかった」
大場の低く大きな声が会議室に響いた。
「それでは、まず、組合側の交渉出席者を紹介します。副執行委員長の大関美代子、執行委員の二宮史郎、私が執行委員長の金村誠です」
「会社側だが、労務担当取締役の村瀬和男、総務担当取締役の宮森正雄、私が社長の大場健二だ」
「ありがとうございます。交渉の進行は、私、大関が行います。さっそくですが、交渉議題について会社側の回答をお願いしたいと思います」
「わかりました。労務担当の村瀬がお答えします。交渉開始前にお配りした資料に基づいて説明します。まず、冬季一時金の増額要求についてですが、会社としては据え置きを考えています」
村瀬は、手元の書類を読み終えた後、組合の反応をうかがった。組合側の3名は資料に目を落としたままで特に反応がない。
「次に、来期以降の賃上げですが、組合が求めている物価上昇分のベアアップは無理です」
村瀬は、また組合側の3名を見た。何の反応もない。
「最後の要求項目です。組合事務所の貸与ですが、会社としては空き部屋がないので貸与は困難です。以上です」
会社側の回答は組合側の要求をすべて拒否する「ゼロ回答」だ。村瀬は組合の反応を内心恐れていた。
「そうですか・・・」
大関が口を開いた。
「一時金くらいはなんとかなりませんかね」
二宮が初めて口を開いた。
「物価が上がっているのはわかるが、わが社は人件費に回せるほどの余裕がないんだよ」
宮森が険しい顔をして答えた。
「それなら、仕方ありませんね」
金村があっさりと言った。
「村瀬さん。来期のベアは、まだ結論がでているわけではないんですよね」
金村の発言を気に掛ける様子もなく、大関がベアについて確認した。
「そうですね。まだ最終的な結論を出す段階ではありません。春闘の時期になるかと思います」
「それでは、その頃にまた交渉を申し入れます」
金村はひとごとのように言った。
「組合事務所は、もし、空いた部屋があったら検討してください。それでは今日の交渉は終わりです。お忙しいところありがとうございました」
金村がそう言うと、組合側は席を立ち、会議室から出て行った。
※
「おい。団体交渉ってこんなもんなのか?」
大場は明らかに戸惑っている。
「私も、団体交渉は初めてなのですが、こんなあっさりしたものではないはずです。もし、私が組合側だったら、もうちょっとつっこむところがありますからね」
村瀬が頭をひねりながら言った。
「俺も、団体交渉は初めてなんだが、宮森君、君はどう思う」
「私も、団体交渉は初めてです。ただ、『交渉』という点からすると組合の対応は淡泊すぎますね。会社の経営状況を検討して交渉に臨むはずですから、私の発言に対して反発してくるのが普通だと思います」
「社長の俺としては、組合対応が楽だし、総人件費が増えないからいいことづくめだけどな」
「急遽労務担当の仕事が増えた私としても楽ですね。団体交渉ということで構えてましたけど、これなら特に問題ないです」
「財務、人事に関係する総務担当としても楽でいいのですけどね」
「とはいえ、経営者としての俺ですら、組合費を集めて賃上げを目指す労働組合があんなんでいいのかと思うぞ」
「労務担当になってから他社の状況を確認しましたが、あれでは、団体交渉で賃上げなんて勝ち取れませんね」
「じゃあ、あの組合は何のために存在するんだ?」
村瀬も宮森も答えられない。
「労働組合ができても、一切賃上げを勝ち取れなかったら、組合費返せってことにならないか?村瀬、あの組合、結構組合員いるんだろ?」
「執行委員長に聞きましたが、100名以上いますね」
「結構いるな」
「はい。立ち上げてそんなに経ってないんですけどね」
「せっかく、会社の業績が上り調子なのに、100名以上の従業員が入っている組合が内輪揉めすると困るんだよなぁ。給料だってあげてやりたいのに。なんなんだあの組合」
「次は、来年の春闘だとか言ってましたから、それまでは何もないでしょうね。労務担当としては嬉しい限りです」
「そうだ。村瀬、お前、取引会社との交渉がうまかったよな。賃上げって結局価格交渉だろ。あの組合に交渉の仕方を教えてやれ。宮森は、財務諸表の読み方をあいつらに教えてやれ。そうしたら、交渉もすこしはまともになるだろう」
(終わり)
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