【短編小説】ガラス張りの執務環境
「ふぅ」
桜木はパソコンの画面を見つめながらため息をついた。朝から仕事に集中できない。
桜木は周りをさりげなく見回した。やはり桜木と同じように落ち着かない様子の職員がいた。
勤め人にとって今日は特別な日だ。なぜなら人事異動の内示が行われるからだ。
内示の日。それは異動が予想される職員の多くにとって緊張する一日となる。内示の結果が職員の人生の明暗を分ける結果になることもあるからだ。
桜木は、33歳。今の所属に配属されて8年だ。この会社の人事のルーティンなら異動が2回あってもおかしくない。
ただ、桜木は、残留の希望をずっと上司に伝えている。上司からも「うちの所属にとって桜木君は余人をもって代えがたいから」と言われている。恐らく異動はないということなのだろうと桜木は思っていた。
桜木の隣席の職員が副課長から呼ばれた。どうやら、桜木の所属の内示が始まったようだ。桜木の会社は、各所属の課長が職員に直接内示を伝える。課長が会議室に待っていて、対象の職員に副課長が声をかけることが多い。
今年は異動対象者が多いのだろうか。課内の職員が次々と副課長に呼ばれている。桜木と同じ並びの席の職員は全員呼ばれた。桜木の正面列の職員も呼ばれている。課には四つの「係」があり、それぞれ10人ほどの職員が所属しているが、桜木が見る限りほとんどの職員が副課長に呼ばれているようだ。
「桜木は呼ばれた?」
別の係の同期から声をかけられた。
「いや、まだ呼ばれない」
「そうなんだ。お前もそろそろ呼ばれるんじゃないか」
「俺は、異動希望じゃないよ」
「え?そうなのか?」
同期は意外な表情をした。
「そうだよ。あれ、俺、お前に言ってなかったっけ?」
「あ、ああ。そうだったな。ただ・・・」
「桜木さん」
突然、副課長の声がした。
「会議室まで来てください」
「承知しました」
桜木はそう言って席を立ち、副課長の後ろを追いかけた。
桜木が会議室に入ると、テーブルの一番奥に課長は座っていた。
「そこに座って」
桜木は、課長が指し示した椅子に座った。
「課長、私は異動ですか?」
異動になると思った桜木は、不満げに言った。
「異動?君の希望はよく知っているからそんなことはしない」
「え?そうなんですか?なら、なぜ呼ばれたのですか?」
「うん。一応説明かな。実は今回、うちの課で君以外はみんな異動するんだ。私や副課長も含めてね。社運をかけたプロジェクを推進する『準備室』に異動する。みんな異動してもかまわないという希望だったしな」
「え?」
「うちの課は君だけが残留だ」
「え?私だけですか?」
「そうだ。『残留』は、君の希望どおりだろ」
「そうですが・・・」
「もちろん所属は存続する。名前が『秘書課別室』に変わる。君が責任者となる。『別室担当課長』だ。仕事の内容も変わる。喜べ、君は社長のそばにいて話し相手になるだけでいいんだ。社長はちょっとパワハラなところもあるが、まあ、大丈夫だろう。多分」
「私だけが残るのは・・・」
「何を言ってるのかね。私も人事課も君の希望のとおりに努力したんだよ。社長からも是非そうしろって言われている。よかったじゃないか。希望のとおりになって。まあ、私から説明することはそれだけだ。もう行っていいよ」
「あの、新しい分室はここにできるのですか?」
「あ、すまない。説明してなかったな。君の新しい事務室はここじゃないんだ」
「社長室の中とかですか・・・?」
「いや、そんなことしないよ。社長も迷惑だろう。10階に職員食堂があるだろ。あそこの前に何も使ってない部屋がある。あそこを改装して『秘書課別室』にする」
「改装ですか?もともと事務室だったんですよね」
「そうだ。ただ、社長から指示があって、改装してオールガラス張りにするみたいだ。君は基本的にそこにいることになる」
「え?」
「そうだ、これも忘れてたよ。社長からの命令で、君の昼休みは13時からになる。食堂にくる社員たち全員と顔を合わせることができるんだぞ。よかったな」
(終わり)
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