『とある物書きのラヴレター』

 つまづいた石はなんの面白味も無く、それが何より恨めしかった。日常にドラマを求めた果てにあったのは、過去の悲観であった。これまでの人生に取り立てて不満があったわけでは無く、とは言え改めて考えると私はなんと可哀想なことかと、思い至る事となった。そうした思考がなんの生産性もなく、ましてやドラマ性など生むわけが無いことはそれはそれでスパイスになるなどとさえ思っていた。この陰鬱としたポジティブはすっかり私の性根を支配したようで布団のカビ臭さやシャワーの最初の冷や水に愛らしさを覚える程だった。
 いつからか通うようになったその店に彼女がやってきたのは、そんな拗れを自覚し始めた頃だった。その店でなければならない理由は特に無く、ただ寝床から近からず遠からずの塩梅が散歩に都合良いというだけのことであった。
 ほぼ毎日であった。紅茶は一杯、三十分文庫本を読んで店を出る。しかし来店の時間はマチマチであった。私とは対照的に、決まって日当たりの良い席を選ぶ彼女が画として美しかったという感想ももちろんあるが、彼女にとってこの店での時間にどのような意味があるのかが気になり、彼女の来店を心待ちにするようになった。
 もちろん、直接彼女に声をかけるようなことはしない。出来ないし、してはならない事だと思っていた。それゆえに彼女から声をかけられた時にはひどく狼狽してしまった。用件は落とした原稿を拾ってくれただけであったが、彼女が店舗の隅にいる私を認識していたとは思わなかった。
「小説家さんですか?いつも何か書いていらっしゃったので。」
 声は思っていたより低かった。二言三言交わしたはずだが、それしか覚えていない。小説家かどうかを聞かれたならそれは否定したはずだが、上手く伝えられていたかはわからない。
 陰鬱な私と謎めいた彼女との物語がここから始まるような事もなく、店で会えば軽く会釈をする程度だった。だからこそあんな物が書けたのだろう。筆が進まず喘いでいた原稿に喫茶店で紅茶を嗜む文学少女が登場したのがその頃だった。原稿の中の彼女はいつの間にか店にいて、いつの間にか居なくなる。言い方は悪いが調度品のような物だ。「彼」との会話も無ければ明確な記述も数えるほどだ。だが原稿の進みは格段に良くなった。まるで彼女を中心にその世界が回っているようにさえ思えるほど、私の中で存在感が膨らむのであった。
 名も知らぬ女性をモデルに物を書く行為には、その扱いがどうあれ背徳感のようなものを感じる。それが影響したか「彼」の行いにも変化が現れた。鬱屈した考え方の中にあった自己満足が見えなくなったとも言える。自嘲や八つ当たりは減り、その代わりに明確な悲観が増えた。問題に、不足に、障害に正面から向き合い、到底敵わない事をはっきりと意識した。私の走る筆は「彼」に幾度も難関を与え、徐々に追い詰めてゆく。対照的に彼女の描写はより美しくなっていった。まるで「彼」に宛てて書けない美しい言葉を、歯触りの良い文を、彼女に託しているように思えた。
 原稿が終わっても店へ行く習慣の抜けない私は、つまり彼女にも会うことになる。「彼」は私から巣立ったものの、彼女に触発された世界はそれでも回り続けた。
 気づけば私は手紙を書いていた。喫茶店の文学少女に宛てたもの、色白の図書館司書に宛てたもの、在りし日のクラスメイトに宛てたもの。手紙の中の彼女は千差万別ではあれど、私からすればそれはただ1人であったのだろう。これはドラマでは無い。が、色も味もなく、何も生まない創作に心奪われた時間は、思いの外幸せではあった。宛先のない手紙達は少しずつ、しかし着実に増えていく。増えた手紙は丁寧に封をして菓子箱に入れ棚にしまった。
 妻ができ、子ができ、職も暮らしも変わった私は店から足が遠ざかり、あの生産性のない創造力も失せてしまった。当時の後ろ向きな倦怠感も、忙しさの中ですっかり擦り切れてしまったようで、私の作品に「彼」が顔を出す事は二度となかった。無論彼女もだ。あの頃書いていたものを思うと、今はなんと健全な作品を書いているのかと感じてしまうほどで、あの店に向かったりもしてみたが無駄だった。恐らくまたそこで「彼女」に会わなければあの静かな狂気が刺激されることはないだろう。商品価値のないものをいつまでも回顧する姿に、未だ変わらない性根を感じながら今日も前向きな「彼」を書いていく。

 年末の大掃除、私は夫の書斎から一つの菓子箱を見つけた。まさか未発表の原稿かと期待したが、中身は封の切られていない無数の手紙だった。封筒表面には宛先や宛名はない。一瞬の逡巡はあったものの夫が書斎の掃除を放棄した際に全ての裁量を手に入れた事を思い出し封を開けて読むことにした。悪く思うな、約束のうちだ。
 1枚目はある女性に充てられたラヴレターだった。律儀にふられた日付は私と付き合う少し前のものだった。若干青臭さを感じる文体は、新鮮さもあってか今のものより好みだった。夫が書いたものであるならば、この手紙は相手に届けることができなかったということか、と気付くと少し切なくなった。これが届いてしまった世界線もあったのかも知れないのだ。年始は久しぶりに家族でどこかへ行こうかと思った。
 複雑な心持ちのまま2枚目を開ける。あの流れで開けるのかよと思っただろ。私は開けるんだよ。同じように夫が誰かに宛てたラヴレターだ。読んでみる感じ、先ほどとは別人に充てている。そのまま読み進め末尾の日付に目を向けると、先ほどの手紙の2日後だった。多少の困惑のまま3通目を開ける。また別人へ今度は2枚目の翌日に充てている。恋多き夫。
 最早内容を楽しむ余裕はなかった。どれも違う女性に充てられている手紙達は書かれた順番に並んでいたようで、日付は少しずつ間を開けながら進んで行った。読み進むうちに焦りを覚える。夫の知らなかった一面を見たこともあるが、それよりも日付が私と付き合いはじめた日に近づいていたことが大きい。手紙はまだ残っている。
 ガチャという音とともに扉が開く。打ち合わせから帰ってきたのだろう。夫は菓子箱の蓋を見てアッと声を漏らした。ここまで私はリアクションをとることができなかった。すでに日付は恐れていたところを突破し、目に涙が溜まってしまっていたからだ。それでも封を開ける手を止めない。夫も止めない。止めても無駄だと思っているのか、或いは次々と封を開けるその手付きにただならぬものを感じたのかも知れない。
 落ち着いてきた。夫は書斎の入り口で固まっている。黙って部屋を出る。娘がもう寝ついてくれていて良かった。不貞寝なんて字面でしか知らなかった。パジャマに着替えることも忘れたが、不思議と寝つきは良かった。現実逃避なのかもしれない。夢を見ずにすんでよかった。
 目蓋の向こうの明るさに気づき目を開ける。娘はまだ横で寝ている。寝室に夫の姿はなかった。サイドテーブルには1通の手紙。昨夜嫌と言うほど開けた、飾り気のない白い封筒だ。平常なら読まなかったかもしれない。こんなもので機嫌を取ろうと思うな、と突き返しただろう。素直に封筒を開ける淑やかさに夫の想い他人達を重ねてまた少し落ち込んだ。
 手紙には3枚綴りのものと、1枚だけのもの、2種類の便箋が入っていた。長い方から読み始める。そこには、端的に若い頃の悪癖が記されていた。ほとんど話したことのない女性をモデルに、あろうことか見た目だけでその人となりを決めつけて、歪んだ愛から無益な創作を続けていたと言うものだ。腹が立つ。その悪癖にではない。その論調がまるで、件の女性のことをよく知ることで、書けなくなったように締め括られていることにである。短い方は端的なラヴレターだった。宛名はやはり知らぬものだったが、昨日読んだものとは違い、利発そうで勝気な女性に充てられていた。
 居間へ行くと、夫がソファで眠っていた。これを書いてから寝たのだろう、よく眠っている。毛布を掛け、ローテーブルにさっきの手紙と一枚のメモをおいた。
「30点、書き直し 私はもうちょっと淑やか」
さて、朝食の時間まで書斎の掃除の続きだ。


〜解説のようなもの〜

物書きを書いてみよう。という思いつきから
『とある物書き』シリーズというショートショートを書いていきます。
2本目は書きかけがありますが、3本目は続くか分かりません。

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