『とある物書きの買い物』

 あの日のことはよく覚えている。財布の中には4,270円。大金だが、全て小銭だった。お小遣いやお使いの釣り銭を名ばかりの財布に貯めたものだ。というのも滅多に財布など取り出さないからだが、それでも休日外に出る時は忘れずに持ち歩いていた。
 母の買い物に着いて出た。休日だが父は仕事で、テレビゲームは難しいところで停滞していた。着いていけばシュークリームか魚肉ソーセージ程度は買って貰える。そんな打算もあったが、とにかく他に暇を潰す選択肢がなかった。
 買い物といっても若い人が休日にするようなそれではない。横文字でショッピングと言うようなイベントはうちとは無縁であったし、だからだろうけれど興味もなかった。近くのスーパーまで車で十数分、毎日小学校まで歩く道のりと大部分を共有している、つまりは見慣れた道だ。
 たまに目的もなく外へ出て、何かを眺めていたい気持ちになる。こう明文化できるのは私が今は大人であるからだが、思い返してみれば当時も同じような気分になることはあった。或いは、そうして車の窓から外を眺めて、何でもない時間の如何に有意義であるかを学んでいたのかも知れない。
 母は車を停めると、まずは隣のクリーニング店へ入っていった。私は母の背中にスーパーにいると声をかけ1人で店に入った。そこは何でもない日常の場のはずだった。学校の帰りに塾へ行く曜日は、その塾終わりと母の買い物の時間が重なるため、ここが待ち合わせ場所になる。だが今日は少し状況が違う。塾終わりに母が少し遅れることもあったが、学校にお金を持ち込むこともなく、ランドセルを担いでもいれば、スーパーの中を歩き回ることはしなかった。もちろん当時は倫理に基づいて判断していたわけではなく、ただ言いつけを聞いていたに過ぎないが、そう思うと少年の時分の私はなかなか素直であったようだ。身軽で所持金のある私は、ある種の全能感を味わうこととなる。つまり私は初めてそこで正当な客になったのだ。
 財布の中には4,270円。全て小銭だったが、中身を覚えていれば数えるのは容易だった。これで何が買えるのか、と見て回る。
 先ずは野菜売り場だ。いつものカレーの具材3種から見分けのつかぬ葉物、見るのも躊躇う茸たちに得体の知れないカタカナの何か。どれも買うことはできそうだが、特段買いたいとは思わなかった。欲さずとも勝手に食卓に出てくる、そういうものらだと思っていた。
 次は鮮魚売り場だ。近づくだけで感じるものがある。初めてではないが嗅ぎ慣れぬ香り。冷蔵ケースの冷ややかな中身を覗くといくつかの目が潤いを持って輝いていた。綺麗だと思ったかもしれない。推量が挟まる程度には薄い感想だった。なんとなく生物そのままの姿での死体から距離を置こうとしたようにも思う。
 肉売り場はさらに感想を思い出せない。何しろ冷蔵ケースの中には多少濃淡を変えた程度の白とピンクの2色ばかりだったからだ。調理前の肉であり、屠殺後の肉だ。考えてみれば少年にとって最も馴染みの薄い肉なのかも知れない。それらが何なのか分からないわけではないが、それらがどんなかが分からないのだ。これは今もそうだが、同じ色味でもハムだけは美味そうに見えた。
 また進めば惣菜売り場だった。揚げ物を見ただけで胸焼けを起こすようなことのない健康体の私は、パック売りもバイキング売りも一品一品をまじまじと見つめ、なるほど夕飯で見たこれはここから来たのかなどの具体的な感想を抱いていった。腹の空きはまずまずといったところだったが、幾つかは食いたいとも思った。ただ、買おうとは思わなかった。少年にとって夕飯は自身で手に入れるものではなかったのだろう。
 惣菜の次というと所にもよるだろう。その店に於いては乳製品、甘味、菓子パンと並んでいた。白に差し色の入った冷蔵ケースから、黄色基調の菓子パン棚へのグラデーション。そこに並ぶのが、各社がそれぞれ競争のために送り出した選手たちであることは理解していたが、そこにこれほどの統一感が生まれるとは、と感嘆するようなことはなく、ここへ至っても単価が大したことのないものばかりだと目を滑らせていった。
 甘いものは好きだった。先述の通り、ご相伴にシュークリームを期待するほどには、今の甘い物好きの面影があった。そこいらに並ぶものは大抵が甘さを売りにしていて、香りこそ無いもののそれらの如何に甘いかは食わずとも理解できた。だからだろうか。見ているだけで満足してしまったのだ。棚からぼた餅とはよく言ったもので、意図せぬボーナス的な側面こそを甘味として感じていたのかも知れない。どうせさして働かぬ脳に糖は必要ないのだ。
 これで外周は終わりだ。遠い記憶ではあるが10分とはかかっていなかったように思う。内側に目を向けるとそこにはアイスクリームの入った冷凍ケースがあった。正しくはそれ以外の袋や箱、ボトルに入った何某が、ただ何某かとしか見えなかっただけのことだろうが、とにかく次に向かう場所が決まった。これは敢えて記すほどのことではなかったのだが、ここまでの商品のどれも、私は手にするようなことはなかった。一度無闇に商品に手を触れたのを咎められたのだったと思う。やはり私は聞き分けの良い方だった。手を触れられない私はアイスの沈む冷凍ケースに顔を近づけ、ひんやりとした風を頬でうける。微かに匂いのようなものも感じたが、何の匂いかは分からなかった。冷気が鼻を通る感触を錯覚したわけだからなんの匂いでもなかったのだが。それらを見て抱く感想は甘味の時と相違なかった。私にとって両者は保存温度にしか違いがなかったのだろう。
 冷凍ケースを抜けるとそこにはカラフルな円筒形がずらりと並んでいた。飲料売り場だ。こちらも片面は冷蔵ケースで、よく冷やされた商品を直ぐに楽しむことができる。こうして見てみると、コーヒー類を除いたとしても、飲んだことのない飲み物が割に多かった。飲み物を選り好みすることはなく、選べるときは気分で選んでいた。ここでいう気分とは感情の動きや肉体の状況に合わせてということではなく、全くの直感のことである。そして飲み物に関しては、喉が渇いたと言えば買ってもらえるものであったため特に欲しいとも思わなかった。なんなら家を出る直前にオレンジジュースを飲んでいたので、喉も乾いていなかった。
 ふと気付くことがあり、菓子売り場、殊更玩具付きのものが並ぶ売り場へ向かった。そこだけは売り場の位置を記憶していた。そうだ、いつも欲しいと思っていたものがそこにあったではないか。ねだったとして買ってもらえないことは最初の数回で学んだため、日頃からパッケージを眺めるだけのウインドウショッピングを楽しむ場となっていたが、今日の自分は無敵だ。なんてったって財布を持っている。それもただの財布ではない。4,270円もの大金が入っている。全て小銭だが、そのズッシリとした重みをも気に入っていた。
 端から一つずつ手に取りパッケージを眺める。それぞれに数種類の中身があり、この中ではこれが欲しい、と順位をつけていった。全種を一つずつなどという悍ましい買い方は思いつきもしなかった。
 それなりの時間をかけて吟味した。どれもこれも欲しいと思う。だが結論から言えば私はそのどれも買うことはなかった。私がそれらから得ていたのは、欲しいと思う感情そのものであり、手に入れて仕舞えばもうなんの感動も残らないことを直感で理解していたのかも知れない。或いは当時の私にとって欲しいと買いたいには明確な差があった、つまり得ると買うは全く別の意味を持っていたのだろうか。
 菓子売り場でしゃがみ込む私を母が呼んだ。すでにカゴをいっぱいにしてレジに並んでいる。カゴの頂点にはシュークリームが2つ見えた。今家にいない父と兄には内緒にして、2人で食べようという腹づもりらしい。そういうことは割りかし良くあったし、知ったとしてどうこう言う2人ではなかったが、私は先ほど覚えた売り場へ行きシュークリームを2つ手に取って母がいるのの隣のレジへ並んだ。

財布の中には4,000円。重さの変化は判るほどではなく、ただ数えやすくなった。


〜解説のようなもの〜

お久しぶりのショートショートです。少しずつ書いてはいたのですが、無理に仕上げようとしない限りはなかなか出来上がらないものですね。
内容についてですがフィクション7割です。子供の頃の自分は4,000円もの大金は持っていません。が、モデルにしたスーパーは確かに地元にあって、これを書き始めた後で、無くなってしまったことを聞きました。もうあそこへ行ってもあのスーパーはないのかと思うとやはり寂しさはあります。このショートショートには関係ないですが。

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