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タイガー走る竹林へ

↑これのスピンオフです。

ここにトラジロウという虎がいる。まだ若い虎の男だ。背中に墨絵風の竹林模様が入った若竹色のジャージと安い便所サンダルがトレードマークの虎だ。
トラジロウは目深にキャップをかぶり、興奮に尻尾を逆立て夕暮れの海龍街の大通りを走っている。通行人に肩がぶつかり怒声が聞こえてもトラジロウは振り返らない。胸に抱いた茶封筒の中身には土地の権利書が入っている。憧れの竹林を手に入れたのだ。いまならその足で千里の道も走ることができるだろう。

デキるタイガーは竹林を購入し、そこに庵を結んでアートをするのが良いとされている。例えば満月の晩にメイクノイズでラップをそらんじ、雨の晩には灯火の下にファミリーを集めて四肢を振り回し踊る。無論、連日の酒宴も欠かせない。
トラジロウはずっとずっとそんな文化に憧れていた。囲うべきファミリーもイカしたメスタイガーも持っていないが、竹林さえ手に入ればデキるタイガーの門は開けたも同然だ。

そう。トラジロウには魂でつながったファミリーも血でつながった家族もいない。兄のトラタロウのことも両親のことも覚えてはない。物心つく前に海龍街の大門の下に捨てられたからだ。

思えば運に見放された虎だった。幸い図体だけはすくすく育って手足が大きな立派な虎になったものの、カタギの仕事もウラの仕事もうまくはいかなかった。荒れた生活の果てにはぐれセンザンコウのコウと命をかけた動物麻雀勝負をしたものの『四不像五連キョン二匹』の役をそろえたコウに完敗。危うく虎の敷物にされかけた。コウは本物の勝負師であった。半端な虎は野良猫より弱い。

土下座と背中の毛の丸刈りの辱めでなんとか命を繋いだものの、莫大な違約金を要求されたトラジロウはコウを逆恨みした。復讐もかねてコウの元妻の店に鉈をもって押し入り、コウの名で偽造した借用書を突きつけ脅したりもした。金目当てだ。だが店で粥をすすっていた龍の逆鱗になぜか触れてしまい頭の毛を丸焦げにされ、尻尾をまいて逃げるはめになった。

しかしやっと運が巡ってきたとトラジロウは走りながら大声で笑う。棚ぼた的に手に入れた龍のうろこで違約金を完済。それどころか夢の竹林、なんとすでに庵までそなえた竹林も購入できた。もはやトラジロウの不審な姿に驚くものはいない。すでに街は走り抜けた。アスファルトは砂利道にかわり、それも途絶えて獣道になる。木々の匂いがトラジロウの鼻孔を満たした。竹林を抱く山は近い。明かりのない山道をはねるようにトラジロウは走った。

トラジロウは一晩走り続けた。

憤怒の咆哮が山々にこだまし、山の小鳥が一斉に飛び立った。朝日が照らす竹林の前でトラジロウは怒りにまかせて吼えまくり全身の毛を逆立てていた。便所サンダルの底が割れるほど走ってたどり着いた竹林は朽ちた竹があちこちに倒れて腐り、その隙間から無秩序に太い竹が空に向かって伸びまくっている。もう何年も手入れされていない。
うっそうと暗い竹林は適度に間引かれた文化的な竹林とはほど遠い。不動産屋の狐と狸が口角を上げてささやいた「現金即決で今晩からでも住める虎様にぴったりな竹林をご案内します」とは何だったのだろうか。

街に駆け戻り狐と狸を八つ裂きにしないと気が済まない。トラジロウは壊れた便所サンダルを青々とした竹に投げつける。カロン!と安っぽい音に続いて、かすかな虎のうなり声がした。トラジロウは無意識に鼻をひくつかせる。あたりは竹の青い匂いしかしない。
「ああ……どうか乱暴はおやめください。虎のあなた」
くるる…柔らかいうなり声。白い絹の着物をまとった雌の虎が暗い竹の間から静かに姿を現した。トラジロウが思わず息をのむほどの美貌だ。やわらかい毛皮としなやかな四肢の白虎はこの世のものとは思えぬほど美しかった。
「わ、悪いが姉ちゃん。この竹林は今日から俺のもんだ」
舐められては終わりとトラジロウは低くうなって威嚇したが、輝くような美貌の白虎の前にその声は上ずってしまう。
「ついにこの日が来たのですね……」
白虎の瞳は月夜の晩のような藍色。長いまつげが震えている。
「私は白蓮といいます。この竹林に長く住み、竹の手入れをしておりました。しかし……」
白蓮が着物に手をかけ裾をめくりあげる。トラジロウはうろたえた。
「何してんだコラ!」
「このように足を痛めてしまい、竹林の手入れができなくなってしまったのです」
右足はかかとから膝下まできっちりと包帯が巻かれていた。
「知るかよ……クソッ!」
悪態をつき、積もって腐った竹の葉を蹴った拍子に目深にかぶったキャップがトラジロウの頭から落ちた。チリチリに焼けた頭頂があらわになる。
「まあ!」
「ああああ!みるな!」
白蓮が目を見開く。トラジロウは怒鳴りつけることも忘れて太い前足で顔を隠した。
「おいたわしい。こちらにいらしてください。怪我によく効く軟膏があります」
穏やかな白蓮の声。竹の狭間から優美な手が伸びてくるとトラジロウは思わずその手を取った。白蓮の肉球は今まで触れた何よりも柔らかかった。ぎゅうと肉球をにぎるトラジロウに白蓮は微笑んでみせた。

足を引きずる白蓮に導かれ、トラジロウはうっそうとした竹林を歩く。見上げると竹の枝葉がほとんど絡み合うように伸びている。そしてこちらを見るなとばかりにトラジロウの顔に枯れた竹の葉が落ちる。足下は腐った竹の葉でグズグズだ。
「お足元、気をつけて」
「ハイ!あ、いや……あの、その!」
急に声をかけられ思わずトラジロウの背筋が伸びる。白蓮は驚きも吹き出しもしない。トラジロウのカサカサした肉球の手を優しく引いて歩く。
トラジロウはもう竹林も眺めず、空も見ない。ぼんやりと白蓮のどこか懐かしい背中を見つめていた。

竹の葉が降り積もる竹林の奥にこぢんまりとした藁葺きの庵が一つ。白蓮はその縁台に腰掛けるようにトラジロウに促した。トラジロウはどっかりと腰を下ろす。白蓮はタケノコの皮に包まれた軟膏と小さな桶と手ぬぐいを盆に乗せて庵の奥から現れた。
「傷を見せてください」
トラジロウは鼻の上に皺を寄せてキャップを脱ぐ。とがった耳と耳の間の毛が焼け焦げている。白蓮は目を伏せると真珠のようにつややかな爪がついた薬指で軟膏をとってトラジロウの赤くなった地肌に薄く塗りつけた。ピリピリとした痛みにトラジロウは思わず目を固く閉じた。
「足も見せてください。ずいぶん沢山走ったようですから……」
桶を満たす水の中には青々とした竹の葉が数枚沈んでいる。白蓮は無地の手ぬぐいを水の中に浸して軽く絞った。トラジロウは少し白蓮に目をやった後、おずおずと縁台に足を上げた。いまや興奮はすっかり覚め、確かに足裏や足首に熱を持った痛みを覚え始めている。
「すこし冷たいですよ」
白蓮は声をかけると汚れた足裏の肉球を手ぬぐいで丁寧に拭った。トラジロウの虎刈りにされた背中が冷たさに粟立つ。白蓮は別の手ぬぐいをまた水に浸して軽く絞りトラジロウの足首に巻いてやった。
じわじわと体内の熱が抜けていくのと一緒にトラジロウはまぶたがどんどん重くなっていく。がおんと大きな口からあくびが漏れる。白蓮はお疲れですねとトラジロウを労った。
「よろしければ少し休んでください」
すっかり力が抜けたトラジロウの体に白蓮は掛布をかけながら言う。ほとんど夢の中に引きずりこまれそうになりながら、トラジロウは首を横に振る。眠っている場合ではないのだ。竹林を売りつけた狐狸どもに噛みつかないといけない……竹林の新たなる持ち主としてこの女をたたき出さないといけない……ボロボロの竹林をなんとか文化の香りがする洗練された竹林に作り替えないといけない……虎の思考はやがて堂々巡りとなって暗闇の中に落ちていった。
「あなたからは街の匂いがしますね」
まるで蓮の花からこぼれ落ちる朝露のような声だけが闇のなかに、トラジロウの意識と一緒に落ちていった。

目が覚めるとトラジロウは白蓮が用意した握り飯と味噌汁を食べた。トラジロウは結局、狐狸どもを噛むために街に戻ることも白蓮を追い出すこともしなかった。

「次はどれを切りゃあいいんだ!白蓮さん」
朽ちかけた竹を切り倒して、トラジロウは叫ぶ。痛めた右足をかばうように庵の縁台に腰掛けた白蓮が二つ右隣を、と声をかけるとトラジロウは猛然と鉈を振るい、竹を切り倒す。
トラジロウは朝日とともに目覚めると、白蓮が用意した素朴な朝餉を食べ、毎日毎日鉈を振るっては多すぎる竹を間引いた。庵の周りが片付く頃には、トラジロウはどの竹を切るべきなのかがわかるようになってきた。竹林を歩きまわり、朽ちた竹を片付け、必要であれば青々とした竹を間引く。庵に帰る頃にはくたくたで夕餉を食べるとすぐにまぶたが重たくなった。毎晩とてもよく眠れた。

真昼。白蓮が持たせた竹の葉をほどくと大きな握り飯が三つ。それをぺろりと飲むように食べると、トラジロウは休憩もせずに切り倒した竹を一カ所に集めはじめた。
まずは竹の先端の枝葉を取り払う。長大な竹を自分の身長程度の長さに分割するとトラジロウはまとめて背負った。伐採したこれが竹材として売れると竹林のそば通りがかった鹿から聞き、トラジロウは近くの村のよろず屋に竹を納めに行くようになった。
ささやかな売り上げをトラジロウはジャージのポケットに突っ込み、薄闇の竹林の中を歩く。竹の枝葉が風でぶつかり合い、さわさわと音を立てる。広くなった空には少しだけ欠けた月が輝いていた。トラジロウの頭のやけどはすっかり癒えて、まだ短いが毛が生えそろった。背中の虎刈りの痕跡ももうほとんどわからない。トラジロウはこそこそとジャージのポケットから紙幣を取り出して数えた。庵への道すがら何度も数えた。
庵から離れたところにある小さなほこらの裏に隠した少し錆びたサブレの空き缶。その中にトラジロウは竹材を売って得た金銭を隠していた。白蓮には竹を売っていることを内緒にしているのだ。
ため込んだ金で買うものは決まっていた。街で見かけた貝の細工の腕飾りを買うのだ。白蓮の細腕にきっと似合う腕輪。満月の晩にはどうしても間に合わせたかった。

夜風が青竹の葉をさらさらしゃらしゃらと揺らしている。トラジロウはゆっくりと瞬きした。
「もうすぐ竹の花が咲きます。トラジロウさん」
縁台に寝転がったトラジロウの鉈を振るって熱がこもった肉球を白蓮は水を含んだ手ぬぐいで冷やしてやる。トラジロウは目を細めた。
「花?」
「はい。トラジロウさんが竹林を手入れしてくださったおかげで、竹は枯れることなく花を咲かせることができるんです」
「そうか……」
褒められて気恥ずかしくなりトラジロウはもぞもぞと寝返りをうって竹林を眺めた。月明かりに照らされて青々とした竹林がどこまでも続いている。トラジロウは笑みを隠すことができない。
「……花を咲かせると竹はみんな枯れてしまいます」
ピクリとトラジロウの耳だけが白蓮の方を向く。白蓮は心配ありませんとささやいた。
「竹林は一度命を落とします。だけれど季節がいくつか巡ればまた新しい芽吹きが訪れます」
だから大丈夫ですと白蓮はささやきトラジロウのゴワゴワした首の毛を優しくなでた。

明け方、眠る白蓮の額をそっと指でなでてからトラジロウは庵を後にした。ほこらに寄り、サブレの空き缶から紙幣をつかみとってポケットに突っ込むと、海龍街へとひた走った。稲穂を刈り取る人々が振り返り、土埃をあげて走る虎を見送る。いくつかの山と村と町を越えて虎は走った。
やっと街に着いた頃にはすでに太陽は天辺から少し傾いていた。昼過ぎ、海龍街の人混みをかき分けトラジロウは宝飾店へと向かった。憎き狐狸をシメている時間はない。
トラジロウは肩で息をしながら店のショーケースににらむ。白い貝と真珠でできた蓮の花があしらわれた銀の腕輪はまだそこにある。重いガラス扉を押し開けた。
きっちりとスーツを着こなしたパンダはルビーの指輪を磨く手を止め、騒々しく開いた扉の方に目をやって思わず腰を浮かせる。牙をむいた薄汚いジャージ姿の虎が飛び込んできたのだ。強盗かと身構える。トラジロウはぐるると唸った。
「おい店主、表に出てる蓮の腕輪をくれ!これで足りるな!」
トラジロウはジャージから紙幣を取り出すとパンダに突きつけた。パンダは震えながら紙幣を数える。きっかり足りる。パンダは黒い毛に隠れた小さな眼をせわしなく動かした。どうやら虎は客のようだ。
「わ、わかりました。贈り物でしょうか」
「……なるべく、か、可愛らしい紙で包んでくれ」
仁王立ちした虎が少しうつむいた。ラッピングという言葉をトラジロウは知らなかった。

桐の化粧箱を淡いピンク色の包み紙で包む。白いリボンをかけパンダは器用に蝶々結びをすると結び目に小さなバラの造花を一本差した。トラジロウは客のために用意されたふかふかのソファにも座らずにパンダの手元をじっと見ていた。
「よし!いい感じだ!ありがとうな大将!」
紙袋に入った箱を虎はしっかりと抱き抱え、ぺこりと頭を下げると嵐のように店を飛び出した。残されたパンダは呆然と揺れるガラス扉を見つめていた。

紙袋を潰さないように抱え。トラジロウは元来た道を駆け戻る。手足の肉球がじっとりと汗をかいている。トラジロウは空腹も喉の渇きも忘れて走った。いつの間にか日が傾き山の端に引っかかっていた。

竹林に帰る頃にはすっかり日は沈み、黄色くて大きな満月が竹々を照らしていた。風のない夜だ。
あ、とトラジロウの口から驚きの声が漏れた。背の高い竹も低い竹もすべてみずみずしい葉の間から白い小さな花を何本も伸ばしている。トラジロウは側に咲いていた花をちょんちょんと指先でつついた。
「これが竹の花か!白蓮さんの言ってた通りだ……」
トラジロウは大きな口でにまりと笑う。満月を見上げて歓喜の咆哮を上げた。
「満月に竹の花!こんな日は百年待ってももうこねえな!今日しかねえ!今日だ!」
皺が寄ってしまった紙袋を手に下げ、疲れた足をなんとか動かし庵へと向かう。
なんと言葉にすればよいのか、トラジロウはここまで走りながらずっと考えていた。女房になってくれ、一緒にいてくれ、家族になってくれ……何しろ一生に一度だ。

花咲く竹に囲まれた庵は死んだように静かだった。何時もほの明るい行灯の明かりでトラジロウを迎えてくれるのに今夜は明かり一つない。トラジロウの心臓がきしむように痛んだ。よろよろと縁台に走り寄る。狭い庵の畳の上に白蓮が眠っていた布団がきちんと畳まれていた。
「白蓮さん」
トラジロウは土足で上がり込む。庵の中を見回した。夜闇に目をこらしても白い虎の姿はどこにもない。手足がこわばり、大事に手に提げていた紙袋が落ちた。

「白蓮さん!」
地面に降り積もった枯れ葉を散らしながらトラジロウは竹林の中を這いずり回るように白蓮の姿を探した。足が悪い白蓮が登れないような近隣の山々も探した。朝日が登るまでずっと探した。

「白蓮さん」
夜が明けて、トラジロウは近隣の村々を訪ねては白い虎を見かけなかったかと尋ね回った。誰に聞いてもみな首を横に振るばかりだ。ここいらであんた以外の虎は見たことがないと皆口をそろえて言った。

「白蓮さん……」
竹の花がすべて散り、すべての竹がゆっくりと茶色に枯れ始める頃、トラジロウは庵の縁台に座って白蓮が帰ってくるのを待った。腕輪が入った紙袋は部屋の真ん中に落ちたまま、うっすらホコリが積もっている。

虎の住む竹林が枯死したと言う話がよろず屋ヤマネの根津の耳にも届いた。そういえばあの虎が竹を売りに来なくなったなと根津は心配になり、村長の猿吉と連れだって虎の庵を訪ねることにした。
「こりゃあひどい。もう八十年も生きたがこんな有様は初めてだ」
腰が曲がった猿吉が枯死した竹が折り重なる竹林を眺めてぷるぷる身震いした。根津は猿吉のために竹をよけてやりながら、枯れた竹の葉の上を歩いた。
庵はぽつんと建っていた。縁台に座る虎は痩せて小さく見えた。

「俺はここで白蓮さんを待つんだ…」
トラジロウはぼそぼそと呟いて動こうとはしない。立派な虎ひげはすっかり垂れ下がってしまっている。
「トラジロウさんや、いくら丈夫なあんたでもここで冬を迎えたら凍えてしまう。冬の間だけでも村にきてもらえんか」
縁台に腰掛けた猿吉がぽつぽつとトラジロウに語りかける。腹が減っているだろうと懐から懐紙に包まれたせんべいを出した。香ばしい醤油の香りにくううとトラジロウのハラが鳴る。白蓮が居なくなってからほとんどロクなものを口にしていなかった。トラジロウの胃は心を無視してかぐわしいせんべいを欲した。
「そうそう。うちのよろず屋の二階で寝泊まりすればいい。あんたがここで野垂れ死んだら誰がその、びゃくれんさん?を待つんだ」
根津もぴょんとはねて縁台に座る。トラジロウはモソモソとせんべいを食べながら首を横に振った。
「いや、そこまで世話になるわけにいかねえ」
「別に気にすることじゃないが……まあ、それだったら頼みたいことがある。おまえさんなら力も強いし、村のみんなも喜ぶ」
猿吉はトラジロウの背中をぽんぽんと叩く。トラジロウはゆっくりと立ち上がった。

山村の冬はトラジロウにとってあっという間だった。竹林も森も田畑も雪がすべてを覆い隠し、トラジロウはあちらの家の屋根雪下ろし、こちらの家の前の雪どかしと村中を飛び回った。行く先々の家で飯と酒を振る舞われ、雪雲が消え去る頃には白蓮と暮らしていた頃より二回りは大きくなってしまった。ハラの周りに肉がついた。

村の雪がすっかり溶けるとトラジロウは猿吉と根津に礼を言い、竹林の庵に戻った。冬の間、締め切られていた雨戸を開けると畳の部屋はあの日のままだった。トラジロウは取り残された紙袋拾い上げると積もったホコリを払って部屋の隅の物入れにそっとしまい込んだ。
枯死して庵の上に倒れた竹を片付けるとトラジロウは竹林を後にした。湿った土の匂いに鼻をひくひくと動かす。それが春の匂いだとトラジロウに教えるものはもういない。雪解け水が激しく流れる川の横を通り、耕された田畑の横を通り、子供たちが遊ぶ広場の側を通り、トラジロウは歩く。山を、田畑を、村を、街をいくつも通り過ぎる。

何日かかけて海龍街にたどり着くとトラジロウはまだ開店前の狐狸不動産のシャッターを激しくたたいて開けさせ、震え上がる狐と狸を締め上げた。
「ビジネスしねえか?俺とよ」
「「はいお話をお聞きします!」」
どっかりと革張りのソファに腰掛けたトラジロウは漆塗りのテーブルに足を無造作に投げ出す。狐と狸は抱き合って震えている。トラジロウは口を開いた。

荒れた竹林を狐が安価で引き取りトラジロウへすぐ連絡する。トラジロウは鉈を持って竹林に走る。トラジロウはどんな荒れた竹林でも鉈を振るい美しく手入れして狸に引き渡す。狸が富裕層の虎たちに竹林を紹介するとすぐに売り手が現れるという寸法だ。
思いのほか竹林ビジネスはうまく転がった。そのうちトラジロウに直接竹林の手入れを依頼するものも現れ、トラジロウはますますせわしなく竹林から竹林へ走る。

週の五日は忙しく走り回っても、二日は必ず白蓮の庵で寝泊まりした。庵で何をするでもない。すっかり枯れ落ちた竹林を見回ったり、縁台に寝転がったりするぐらいだ。たまにヤマネの根津が酒を持参して顔を出すこともある。

そんな生活を数年続けて春がまた巡る。やわらかい春の日差しの中でトラジロウの竹林に変化が現れた。黒に近い茶色の土のあちこちらから芽吹くもの。無数のタケノコの穂先がぴょこぴょこと顔を出したのだ。そしてタケノコの豊潤な香りにひかれて竹林に訪れるものもあった。

庵の雨戸を叩く音にトラジロウは飛び起きた。しょぼしょぼと開かない目をこすりつつ雨戸を開けると。まだ暗い竹林を背に男が立っている。
「タケノコを掘りに来た」
「龍の旦那……」
異様な長身を藍染め木綿の長衣で包み、首元には草木染めの淡い紫の布を巻いた龍人が空のかごを背負って立っている。その手にはクワ。頭には日よけの編み笠まで乗せて。
「センがタケノコを気に入った。だからまた掘りに来た。おまえの名前は出していない」
「はあ。あんときはすいませんでした」
トラジロウが頭を下げるとフンと龍人は鼻を鳴らし。片手にしっかりと握ったクワを上下に振った。
「粥の具にしたいと言っていた。店で出す。多めに掘るぞ」
「あ~……そりゃいいっすね」
虎の返事に、龍人は口元の布をずらしてかぱりと口を開いて見せた。異形の口にはとがった歯がギラリと輝く。虎はとっさに後ずさった。ぽさぽさの毛が逆立つ。
「おまえは出禁だ。食いに来るなよ」
「絶対にいかないです!」

龍人はクワを振り回し、湿った土を掘り返している。トラジロウはため息をついて雨戸を閉め直し、ゴリゴリと後頭部の毛を掻くとまだ暖かい布団に潜り込んだ。優しい夢の続きを見たかった。
夢の竹林はトラジロウの頭の中の竹林だ。庵の縁台には白蓮が座っている。トラジロウはつやつやとした青い竹の隙間から白蓮の姿を眺めている。近づけは淡い夢は消えてしまう。

暖かい布団の中で味わうやわらかい夢は再び雨戸を叩く激しい音で霧散した。トラジロウは思わず吼えた。
「も~なんなんすか龍のだ……」
「くるるるぅ!」
粗雑に雨戸を開け放つと真っ白な虎の赤子がトラジロウの方に両手を伸ばして、くるるぅ!くるるぅ!と鳴いている。
虎の子は龍人にたるんだ首の皮をつまみ上げられて空中でせわしなく手足を動かしている。龍人は異形の口元を布で隠しているのであまり表情がわからないが、その目は困っているようにトラジロウは見えた。
「光るタケノコの皮を剥いだら出てきた」
龍人はいつも言葉少ない。トラジロウは理解が追いつかず、鼻の上に皺を寄せた。心臓がまるで千里も走ったかのようにドキドキと激しく脈打っていた。
虎の子は両手両足をもごもごと激しく振り回して龍人の手から逃れようとしている。トラジロウの手は自然と白い虎の子を抱き上げていた。トラジロウの腕の中で虎の子はくうう…と甘えた声を出す。月夜のような藍色の目でずっとトラジロウを見つめている。

「この子、おれがめんどうみます……」

トラジロウは震える手で白いトラの子を抱き寄せ、その額に鼻を寄せた。

おわり

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